小説・海のなか(18)
***
教室を出るとともに、また俺は囚われてしまった。
あの問題。未来という問題。
考えたくないと思えば思うほど逃れられなくなる。泥濘に足を取られ、はまり込んでゆく。もう誰のせいにもできない。逃げていた俺が悪い。空っぽな俺が。別に逃げ続けられるとたかを括っていたわけじゃない。
何も考えていなかった。ただ、それだけ。
これからどうするのか。どうすべきか。どうなるのか。
もし問いかけたなら、「好きに生きればいい」と親は言うだろう。
俺は恵まれている。多分。
だけど、「やりたいこと」がない時はどうすればいいんだ?「好きなことをすればいい」と言うかもしれない。なら、「好き」と自信を持っていえるものがない場合は?そういうやつにとって自由は罰に等しい。
いままで、なんとなくで生きてきた。
地元の小・中学校に通って、近いからと言う理由でこの高校を選んだ。これまでを後悔しているわけじゃない。ただ、俺は「自分で選んで」ここにわけではないと言うことにたった今気がついたのだった。それなのに、大学からは急に選べ、という。どうすればいい。
……そもそも、自分で選ぶって、なんだ?
「陵?ちょっと」
不意に腕を引かれる。怪訝な表情の沙也がこちらを覗き込んでいる。周囲の雑音が次第に戻ってきた。
「ねえ。たこ焼き買ってっていい?まだ時間あるし」
「ああ、いいよ。……なあ、奢るから俺も食べていいか」
「別にそりゃいいけど。いいの?」
「今月の小遣いあまりそうだからさ」
「たこ焼き8つ入り一つ」と言って屋台の売り子に200円を渡すとパックに入ったたこ焼きがすぐに手渡された。50円お釣りも帰ってくる。
「たこ焼き好きだっけ」
沙也にパックを手渡しながら問いかけると、
「まあ、割と」
答えつつ沙也は一個頬張った。彼女の口元に青のりが付くのを気にしながらポケットを弄る。
「でも、タコは嫌いだろ」
「たこ焼きは別。見た目がダメなんだよね、イカもだけど。食べるんでしょ?冷めるよ」
俺はたこ焼きを一口に食うと、ポケットティッシュを差し出した。
「のり、ついてる」
「ん?あ、ほんとだ」
口の中のものを飲み込んで、また次を放り込みながら、ふと思う。沙也はこの先どうするつもりだろう。沙也って女の子は昔から食べ物でも人でもなんでも白黒はっきり好き嫌いを言う。言えてしまう。幼なじみとしては、そう言うところが怖くもあり、誇らしくもある。俺には決して持ち得ないものだから。
「なあ」
「ん?」
見ると沙也は今度こそ青のりがつかないようにしようと大きな口を開けていた。
「あー、そのー」
自分でも嫌になるくらい俺は口が上手くない。いきなり進路のことなんか、どうやって切り出せばいいんだ?言い淀んでいると、沙也は上目遣いに軽く睨んだ。
「さっさと言えば」
幼なじみは昔から短気だ。言葉はきついが決して怒っているわけじゃない。ただ、迂遠な言い方を好まないだけで。その証拠に長い付き合いのなかでも沙也が本気で怒っているところを多分ほとんど見たことがない。
「ええと。沙也はさ、卒業したらどうしたいとかもう考えてるの」
「なぁに、いきなり」
「いいから教えてよ」
少し考え込むような沈黙の後、
「…ま、大学には行くと思う。まだ絞れてないけど。学部は悩み中。でも、経済とかいいよね」
予想外に真面目な回答が返ってきて面食らう。口に出してここまで言うのだから彼女の中ではもっと沢山の計画があるに違いない。沙也とはそういう子だ。できないことは言わないし、口にした以上絶対にやる。プライドが高い、とも言うけれど。
「まあ、そうだよなあ。ウチの高校、普通科だし」
口にした言葉はふわふわとして中身が伴わない。空気を噛むような気味悪さだ。すると、少し前を歩いていた沙也はくるりと踵を返した。
「また鬱陶しい感じでうだうだ悩んでるんでしょ。もはや趣味じゃないの?あんたも飽きないよね、ほんと。そんなずっとジメジメしてて疲れないわけ?」
言うだけ言うとまた幼なじみは背を向けた。
「仕方ないだろ、こういう性格なんだよ。俺だって嫌だ。こんなの」
投げ捨てるような響きが宿るのを止められない。沙也は時々こんな風に説教臭くなる。まるで姉みたいだ。だからなのか、俺はこういう時いつも反論できない。幼なじみに説教されるなんて御免だ。兄妹なんて一人で充分厄介なのだし。
それにしても沙也は普段から多弁というわけでもないのに、一度スイッチが入ると口が良く回る。感心してしまうくらいに。
「今からそんな悩んだって仕方ないじゃん。今はやりたいことだけやってなよ」
『やりたいこと』
「やりたいこと、ねえ……」
悩むなと言われたばかりでまた悩みはじめているのに気がつく。これでは趣味と言われても仕方がない。
「正直、副会長が文化祭そっちのけで悩んでるとかシャレになんないから。今は今のことだけ考えてよね。なんとかなるよ。進路のことなんか」
「無責任なこと言うなよな。ったく」
聞こえないくらい小さな声で毒づくと、沙也は パタリと足を止めた。
「無責任?いい加減なことなんかわたし言ったことない。そんなこと、陵だってわかってるでしょ。できると言ったらできる。少なくもわたしはそう思ってる」
そうしてまた前に向き直るとずんずん進んでいく。その力強い足取りが眩しく見えた。
「……ありがとう」
沙也はもう振り向かない。
「ばかじゃないの」
俺は前をゆく沙也に駆け寄る。そっと盗み見た横顔は凛として美しかった。それだけで、少し自信が湧いてくるから不思議だ。
信じてみようか。沙也の信じる俺を。まだ先は長いのだから。
並んで歩く速度はいつのまにか合わさっていった。
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