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まだそんなところで争ってるの?

いきなりだが、「牛丼屋」といえばどこだろうか。

大手チェーン店や地元の個人店、専門ではないものの「あそこの牛丼は美味い」ってのもあるだろう。

僕はベタに”すき家”と答える。

僕の知人にも同じ「すき家が好きや」とくだらないことを言い合う人がいるのだが、その人が上司に言われたことが腹立たしいという。

「牛丼屋といえば”吉野家”だよな。近頃値上がりして残念だが、牛丼は”吉野家”以外ありえない」

まるですき家派の自分が貶されているようで腹が立ったらしい。

これを聞いた僕の感想は「好きは人それぞれだよね」である。

そう言うと知人は「そうなんだよ。それなのに自分の好みを押しつけられてイラついた」と言った。

これって少し変なのよ。

「好きは人それぞれ」ということがわかっていれば、「人は人、自分は自分」という発想ができ、なんとなく聞き流しつつ「相対的に考えなければ自分の価値を見いだせない憐れな人なんだな」と少し同情する余裕も出る。

それなのに腹立っている知人は「すき家こそ至高」という、これまた価値観の押しつけをしているのである。

「けんかは同レベル同士で起きる」って言葉の通り、互いが互いの好みを人に押しつけようとしているから知人の上司は”吉野家好き”を押しつけるし、知人は”すき家こそ至高”の信念を押し通す。

それを僕は”好きは人それぞれ”という価値観のもと、その争いを上から眺める。

優越感に浸っている。

でも、おそらくこれよりもさらに上の次元があると思う。

それは「そんなことをネタに話をしなくなる」という次元。

僕は他人の争いを観戦している立場である。

野球を見るためにチケット代を払うように、牛丼屋論争に時間を割いている。

もちろん野球が好きならチケットを買って見ればいいが、牛丼屋論争は別に好きじゃない。

例えるなら友人に誘われて野球観戦しに来たみたいな感じ。

そこでハマればまた付いていくが、僕は別に「すき家じゃなきゃダメ」ってほどでもない。

吉野家も食べられるし、松屋でも構わない。

野球に興味のない人が野球を語らないように、牛丼屋論争に興味が無ければこれについてのnoteは書かない。

が、僕はまだ書く段階にいる。

それは「争い事を俯瞰して見てる俺、かっこいい」という驕りがあるから。

精神的豊かさはまだまだ先らしい。

物質の豊かさが山のように盛り上がることとするならば、精神の豊かさは海のように平らである。

そりゃ、時には波も起きるだろうが、すぐに落ち着きを取り戻す。

穏やかながら水位を高め、さらに基板を強固にする。


海の「波」と牛丼の「並」をかけようと思ったのだが、何も思い付かないな。

だって僕は「中盛り」を頼むから。

すき家の肉が好きなのよ。


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