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【推しの子】物語が人にどんな傷をつけるのか

『推しの子』おもしろいね。

現段階での最新話は142話(ジャンプ+)。

映画『15年の嘘』の撮影中であり、役とはいえ「アクアとルビーがキスをするのか!?」という話である。

「兄とキスするなんてありえない」

そんなことを言いつつ目がキラキラしているルビーが、とてつもなくおもしろい。


そんな「兄妹キス」までの歩みを進める一方で、142話には僕に刺さる学びがあった。

物語って言うのはね、人を殺す事すらできるものなの。だからこそ、物語を描く者には、その一文字一文字に相応の責任が求められる。その物語が誰を傷つけるのか、常に自覚的でなくちゃいけない。

『推しの子』142話|赤坂アカ×横槍メンゴ

作中で撮影されている『15年の嘘』は、アイの死にまつわる陰謀を暴く現実に基づいて作られた作品だ。

それが公になれば真犯人は追い詰められることになる。

「物語は人を殺せる」という言葉は、「アイを殺した犯人を殺すこと」。

最初はそんな風に捉えていた。

だけどそれだと「傷つける」って言葉が引っかかる。

どちらかと言うと、アクルビ側が「傷つけられた」のだ。

だから「傷つける」というよりは「やり返す」の方が合う。

『15年の嘘』という物語が一体誰を傷つけるのだろう。


最近ね、マンガの考察動画を見るのにハマってるから、僕も考察動画っぽいことをしたくなる。

だけどこのnoteは『推しの子』を考察するnoteじゃない。

「傷つけられる」のはカミキのファンとか、アイドルのリアルを晒された旧B小町のメンバーとか、あるいは作者であるアクア自身か。

そのくらい薄い認識で僕はいく。


このnoteで話したいのは、作者に傷つけられる読者の”傷”について

僕らはマンガやアニメ、映画、ドラマ、本などなど……様々な「作品」を消費している。

そんな受け手である僕らは、作品を消費するたび作者に傷つけられている

「傷つける」と聞くと「痛い」イメージがある。

転んで膝を擦り剥いたり、高い所から落ちて骨を折ったり、はたまた誰かから言われた心無い言葉に気持ちが傷ついたり。

そういう「痛い」イメージがある。

体の傷は割と治る。

僕も幾度となく転んで膝を擦り剥いたが、今膝に痕は無い。

だけど少し重めの傷、僕は顎をパックリいったことがあり、何針か縫うケガをしたことがある。

今でも痕は残っているし、その部分は髭が生えない。

そんな傷もある。

心の傷はもっと厄介だ。

見えないくせに治りが遅い。

なんなら治らないこともある。

というように「傷つける」という言葉はいい意味で使われない。

悪くて、ダメなことで、加害者のような負の意味が付いている言葉である。


だけど僕らは、マンガを読んで「傷ついた」と思うだろうか?

僕は思わない。

でも「物語は誰かを傷つけるもの」と言われている。

つまり僕は、知らず知らずのうちに傷つけられているのである。

ということは、傷つけられた”傷”は「痛い」とは別のものであるということである。


”傷”に対する感情は作品によって、そして読む人によって変わる。

『銀魂』という作品を見て、「笑える」という傷を受ける人もいれば、「感動する」という傷を受ける人もいる。

『僕ヤバ』でも「笑う傷」を負う者もいれば「ドキドキの傷」を受ける人もいる。

『推しの子』では「ハラハラ」なのか、謎が紐解かれていく「なるほど」なのか、あるいは兄妹間での「禁断感」なのか。

そうやって作品を読んで何かを受け取ることを”傷”と言っている。

僕は今回の話でそういう傷を付けられた。


でね、この話が僕に刺さるのは、僕自身も「創作」ということをしているから。

僕はこうしてnoteを書くことで「傷つく側」から「傷つける側」になっている。

読者にどういう傷を付けるのか。

その傷によって読者のその先がどうなるのか。

そういうことに対して思索と責任を負うこと。

表現者としての生き方を教わった気がする。


僕はあなたを傷つけられているだろうか。

”傷”にもいろいろ種類がある。

時代劇で武士が刀を振うようにバッサリ切ってしまうと、それがどんな傷であれ致命傷になってしまう。

僕は表現に依存するのではなく、活かしてくれる読者が欲しい。

いや、そういう読者に僕がするのだ。

僕はそんな傷をあなたに付けたい。


以上!くろだでした。

読んでくれてありがとうございました。

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ではまた👋

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