ふと考える。 今の自分は大丈夫か。 何かある度に全てが自動で負の思考に なっていないか。 負の思考には光はない。 同時に正の思考もあればいいのだが。 人間は、 自分自身に理解できないことが怖さとなり、 怖さは嫌悪感に変わる。 その時、環境や他人を 攻撃していないだろうか。 自分の外側だけを固めて、 内側にある大事なものを 見ないふりをしてないだろうか。 外側の壁が脆くなると、 またその壁を高く厚くして。 物事に対して、自惚れて 都合の良いように 正当化したふりを
気づけば10ヶ月間書いていなかった。 続けることはこんなにも難しいのか。 独り言だから、 気張る必要も 完璧にする必要もないのに。 それでも続けられてない私は、 なんて意思が弱いんだ、、、と ネガティブな思考に陥る。 いや、そもそも人間の意志や気持ちなんて あてにならないか。 しかも、私は毎日書くなんて 自分に誓っていないし、 気ままに出来れば良いって思ってたし! って言い訳させて。 . 最近は専ら仕事をしている。 休みの日という概念が無くなり、 とにかく前を向いてひ
ゆっくり休む時間が必要な私でも、 12月は予定を入れがちである。 それは、入れたくて入れている。 今年、し忘れたこと、会い忘れた人、食べそびれたもの。 なぜ、11月くらいになって思い出すのか。 いや、年始に決めていたことではなく、 追加事項が多すぎたんだ。 無理矢理こじつけて、 「今年やらなかったら一生しない」 「今年会わなかったら当分会えない」 「今年食べなかったらもう食べられない」 と思うようなメカニズムに自然となっているのだ、多分。 でも、師走って必
昨今の沢山の争いでの雑記。 自分たちを守るために、 誰かを傷つけることが無い世界には いつなるのだろうか。 自らを否定され、心を疑われ、 何かを失った「痛み」から 生まれる闘争において、 外野の人の声は雑音でしかないのだろうか。 自分にとっての「正」が 相手にとっての「悪」になり、 不自由さへの憎悪は 増していくばかりなのだろうか。 書いていて改めて気づいた。 正義とは、こんなにも悲しく恐ろしいものなのだと。 長い時間をかけて複雑に絡み合った糸は 解ける術もなく、
自分のために生きると言葉に出来るほど 私は強い人間ではない。 誰かのために生きることで、 その誰かから命を吹きかけてもらい 生かされている私にとって、 全てを自分のためだけで終わらせる世界で 生きることは難しい。 それは弱い自分が作り上げた 逃げ道なのだろうか。 何かあった時に 自分のせいであることだけにしたくない ずるさなのだろうか。 あぁ、なんて弱く矛盾した生き物なのだろう。 ただ、弱い生き物だとしても 行動そのものは正しくありたいと 強く思う。 人は自分の弱さ
どんな人が好き?と聞かれたら 間違いなくこう答えます。 「事の善悪で考えることができる人」 これはつまり、 自分の損得や利害ではなく、 物事の善悪で考え 行動することができる人。 私が尊敬できる人は みんなそのような判断による行動を サラっとできる人です。 さらには、 他人の為に心からの善意で 接することができる人。 (これは第三者視点になるのですが) そして、事が善い方に進んて行くことが 結果的に自分の為にもなるということを 信じることができる人。 そんな人に私
雑記 こうして季節の変わり目を肌で感じた時、ふと焦燥感に駆られる時がある。 そんな時の私はきっと、自分を見つめる視野がとてつもなく狭くなっているのだと思う。 季節の変化で時の流れを感じた瞬間、私自身は成長できているのか?と振り返った時の焦り。 先延ばしにしていたこと 小さな失敗ばかり記憶したおかげで、 その間にあった学びや新たな発見、出会い、心の成長を確認する暇もなく、過去に置いていきそうになってしまっていた。 そうした時私は、 「大丈夫だよ。」と自分に優しくする時
自分の好きなものや しっくりくるものを知れば知るほど そこに留まってしまう。 お洋服やメイクなんて特に。 始めて言われたのは小学生の時。 母親に、 「前も同じようなお洋服買わなかったっけ?」 と。 靴も「これだ!」と思ったら、 同じものを2足買うし、 白Tは常時15枚は持っている。 黒いスラックスは10本くらい。 クローゼットの中は、 微妙に違う色味や形だけど、 似たようなお洋服が並んでいる。 メイクは赤みのあるブラウンシャドウに ゴールドの細かいラメを少しが定番。
このタイトルは、 なんとなくモヤモヤしたとき、 視野が狭くなったとき、 物事についイラっとした自分を 恥ずかしく思った時などに 読む本の章のタイトルの一部です。 最近というより、 ずっと考えていることを 残しておこうと思います。 人生でチャンスやラッキーなことって、 勝手に向かって来たり 無理矢理掴みにいくものではなくて、 チャンスが漂っている環境の できる限り近くに寄って、 ふとした時に降って来るようなものだと 思っています。 一部のセンスや才能ある人には 向かってく
思考を行動に移すことは 想像以上に苦行である。 かと言って感情の赴くままに行動することも 時に危険である。 そしてまた、 大人になると大人であることを強いられ、 本能は、純粋な想いは、 目には見えない他人にとっての“正”に 無意識に左右され、 不純な思考によって かき消されることが多くなった。 便利になった世の中は思考を遮り、 考える時間を無駄扱いして忙しなくさせる。 知恵を生み出すことは無くなり、 気づくと昔の知恵ばかり頼りに生きている。 科学は成長し、新しいものは
そろそろ何か書こうかなと。 流れに任せて書くので、 まとまりのない汚い文章になるはず。 日常で自分の感情をなるべく抑えて 感情に左右されないように生きていると、 心が消耗することに今更気付いた。 空っぽになる感じ。 きちんとしなきゃ しっかりしなきゃと 自分を律しすぎるのも良くない。 私は欲のままに生きるくらいが ちょうどいいのだと思う。 人間の根本は変わらない。 自分もそうだ。 ただ、それを知った上で消化が上手か下手か。 その違いだと思う。 冷たいかもしれない
楽しかった思い出は何処に記録し 悲しかった過去は何処に蔵えばいいのだろう どちらもこれから生きるために必要な事実であり 自分のエンジンになり得る エンジンではない廃油のようなものであったらどうしよう せめて楽しい思い出に隠れて見えなくなるくらい奥底に 絶対に開かないように蔵っておきたい それがなくなったら今の強い自分は居ないから 開きたくはないけど 無かったことにはしたくないから 廃油をもひっくるめて私の人生なのだから 人はなんて事ない小さく浅い変化に翻
私には同時に二つの時間が必要だ 忙しなく過ぎる日々の中にも、 ただ、ゆっくり流れている時間があることを忘れたくない それを忘れないためにも、 私は事あるごとに、自然に触れる旅に出る 感覚をむき出しにして、 自然の中で感じる全てを 頭に、心に焼き付ける そんな考えについて星野道夫さんは、まさにこう記している 私が言いたいことを、こんなにも丸みのある言葉たちで表現されている 素敵すぎる だだゆっくり流れている時間は、 忙しなく過ぎる日々で得ることができる、
ここ数年で生まれてから当たり前とされていたことが大きく覆り 見て見ぬふりをしていた自分自身についても考える時間ができました というか、考えざるを得ませんでした また、人の優しさに気づき 儚さも沢山見えました 目紛しく過ごす中で、今までは何となく流せてたことも そうはいかなくなり それと向き合う度に 溜まっていたものが溢れ出ていきました 身体を動かし、頭を使うことを止められなかった人生でしたが 一日中ボーっとする怠惰な自分を許すことを覚え 無駄なものを整理
地球の変化と生物の間にある歪み 人間が恐れているのは地球そのものが直面する危機への変化ではなく 今周りに存在しているものが存在しなくなり、生物が生きる上で今後起こると想像される悪の変化なのだろうか 37〜45億年前、地球に隕石が衝突し、温暖な池に元素が供給され生命が誕生したと言われるように 氷河期を超え幾つもの変化があったように 地球は常に変化する存在であることを知っているにも関わらず そして何より、自然の変化により私たちが存在しているにも関わらず また、文明の
人が持っている心の温度は 人によって大きな違いがあり それは本能が無意識に感じ取るものである 他の生物もそうだろう そして、表に出る性格のように取り繕えないものであり その人の本質であり根幹である 温度と言えど 厚みがあってまろやかで 時にじめっとしている 人間は本能(動物的能力)の上に 他の哺乳類と比べられない程の理性(知的能力)があるが故に 他人や自分さらには物事や空間に対して 理性をを司る頭(脳)で想像して意識して 色付けまでする生物である