矛盾するのがデフォルト
悪いことだと知りながら、悪いことをする。
でも、気にしない。
お菓子を食べるのが体に悪いと知りながら、食べる。
でも、気にしない。
頭では分かっていても、それを行動に移すかどうかは、自分次第である。
自分で良くないと知りながら、人は平気で逆の行動をとったりするわけだ。
でも、自分ではない他者が一貫性のない行動をとっていたりすると、非難を浴びせたりする。
例えば、テストで良い点取りたい!と言っている人が、暇さえあればずっとスマホゲームをしているような状態をみたら、誰だって「いや、言ってることとやってること違うじゃん」と、なる。
人はみな、自分に対して甘く、人に対して厳しいのがデフォルトなのだろう。
みんな自分が可愛いのだ。それは、自分が自分のことを嫌いと思っていたとしても、実際の行動は、自分の身を守るとか、快楽を得るための行動だったりするということ。
ただ単に、そういった自己矛盾を抱えているのがデフォルトであるというだけだ。
でも、自分の矛盾した行動に対して自分を責めすぎると大変なことになる。
なんで自分はいつも自分との約束を守れないんだろう・・とか、またお菓子食べてしまった・・とか。
そんな風に、自分のことを責めるというベクトルに向いてしまうと、辛い一方である。
じゃあどうしたらいいのか?
自己矛盾を抱えているのがデフォルトなのは分かった、とはいえ、諦めてどうにでもなれ!と、なげやりになってしまうのも違う。それは、自己崩壊の始まりである。
まず、人は矛盾した行動をとるのがデフォルトであるということを、素直に受け入れることが大事だ。
自分だけは違う!なんてことは無い。みんな、矛盾を抱えながら生きている。
そして、矛盾した行動を取ったとしても、まあ、そういうもんだよな。という感じで、あまり深刻にならず一旦受け流す。
それから、
「今後どうするのか?」
を、少しずつ考えればいい。
というか、それしか方法はない。
過去の出来事や自分を責めることにベクトルを向けていても、事態は好転していかない。
心には、清らかな部分と濁った部分。
そのどちらも内在してるということを、まずは認識するだけで、だいぶ心が軽くなる気がする。
どこからどうみても清廉潔白で、なんの欠点もない完璧人間なんて、もはや、人間ではないと感じる。
どこかしら欠陥があり、デコボコしていて、清濁が入り混じっている。複雑な生物が人間なのだ。
そして、デコボコしているからこそ、補い合えるし、個性が発揮される。
自分のキレイな部分だけを見ようとするから、自分の濁った部分を見たときに自己矛盾を感じて苦しくなる。
そもそも、濁っていない人間などいないということに、まずは気づくこと。
ああ、自分は濁った部分もあるよな。それでもいいや。
と、思えることで、ずいぶんと生きやすくなる。
お菓子も食べていいし。ダラダラしてもいい。サボることがあってもいいし、嫌なことから逃げてもいい。
そういった濁った部分、というか、本来の人間らしい部分に蓋をするから、苦しくなる。
臭いものに蓋をせず開放することで、生きやすくなる。
矛盾なんか気にせず、矛盾した自分もぜんぶ開放したらいいのだ。
人はみな、矛盾している。
そして、矛盾しているからこそ、人間なんだと思う。
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