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【短編小説】《赤廊館追想》もしくは、失われし物語

遺産管理人、ジャベール氏の目は死んでいる。
おそらく、死んだ人の残したものばかり見つめているからだろう。

「一度、ご自身でご覧になったほうがいいと思います」

そう言って私を見つめてきた彼は、まるで夏場に路上で売られている魚みたいだった。
窮屈なだけの黒いスーツは毛羽だって艶がなかったし、その隙間から見える痩せこけた肌の表面はすっかり腐敗の白い膜に覆われてしまっていた。
もちろん実際は私の目が彼の肌の粉っぽい白さを腐敗の膜と取りたがっているだけで、彼はまだ一応生きている。
けれど私はこの想像が気に入った。路上の魚。ぎらつく太陽。可哀想なジャベール氏。

「赤廊館は、よい建物です。ぜひ、手を入れて大事にされるのがいいでしょう」

妙に甲高い声で言い、ジャベール氏は薄い紙ファイルを丁寧に私のほうへ押しやった。痩せた指で結婚指輪が鈍く光っている。そう言えばこの人の家族のことを私は何一つ知らない。もとより私は家族や親族というものに対する興味が薄いのだ。
別に私は自分の近しい人たちを嫌っているわけではない。ただ本当に興味がない。私の興味は常に自分の内側へ向かっているので、皮膚の外にあるものは血を分けた肉親だろうが海の底のナマコだろうが、大して変わらないように思えるのだった。
だから紙ファイルを受け取ったときも、その中に挟まれた資料の建物が私の親族が遺したものだということはさっぱり考えていなかった。
考えたのは名前のことだ。

赤廊館。
――あんまりにおかしい名前じゃないだろうか。

名前からどのような館なのか少しも想像がつかない。漠然と受ける印象は奇っ怪で異様だ。おそらくこの名前をつけた人間は少し私に似ているんじゃないか、と、不意にそんな考えに捕らわれた。

そう、きっと赤廊館の主人は人間嫌いだ。人に共感されるのを厭うのだ。この館の名前は看板なのだ。立ち入り禁止。ここは私の世界。そう言ってにやにや笑いの来客たちを拒否するためにつけられた名なのだ。
なるほど、だとしたら私がそこへ行く理由はありそうだ、と私は思う。
彼、もしくは彼女は私の同志だ。同志がどのようにして自分の世界を守ったのか直接会って話を聞くのは不躾にしても、死んだ相手の妄想の欠片を拾うだけなら悪くない。
私は深紅の紙ファイルを開く。
ブラインド越しの陽光が白い紙の上に落ち、インクジェットで印刷された写真のところどころを白飛びさせる。夏だ。このジャベール氏の事務所も夏なら、写真の中も夏。
赤廊館はけぶるような緑の中、杖にすがった老人のような姿でじっと私のほうを見つめている。

赤廊館は私の住む首都から車で一時間ほどかかる町にあった。
田舎というには一面石畳に覆われて土の匂いが薄く、都会というには近代的な建物のひとつもない、中規模の町の外れである。
私はジャベール氏の薦めに従うふりをして、この夏の休暇をすっかり赤廊館のためになげうった。もちろん館を見るだけなら日帰りですむ。私は赤廊館訪問を、友人の薦めで立てた気乗りしないバカンスの予定を反故にする理由にしただけだ。

バカンスと言われて心が躍ったのは、正直子供の頃までだったように思う。あの頃はまだ心が柔軟で、水着とサングラスだらけの保養地でもそれなりに体中にしみてくるような思い出を作ることができた。
たとえば、私はまだ親と一緒に行った地中海沿いの保養地のことを覚えている。能天気なほどに青い空の下、私は古い遺跡群の上に青い水を張ったプールにいた。へし折れた円柱の上にたたえられた水を切り、私は泳ぐ。
あの国はどこを掘っても華やかなりし古代遺跡が掘りだされてしまうので、みんな少し感覚がおかしくなっているのだと思う。きゃあきゃあ笑いあい、水しぶきをはね飛ばしているその足下では、滅びた文明の残骸が折り重なって息を潜めている。私たちは墓の上で遊んでいるようなものだった。

私はその滅びを満喫するために水中に顔を突っこみ、懸命に目をこじ開けて水底の光景を見つめた。水中には幾筋も天からの光が差し込み、かつて巨大な建築物を構成していた柱が、屋根が、そして彫像の数々が、ゆらゆらと水紋を映して静まりかえっている。天然の岩のように折り重なった白い遺跡の残骸は、どことなく巨大生物の白骨を思わせた。それは悲しく、空恐ろしい。

地上の人々の声を木霊のように遠く聞きながら、私は呼吸が苦しくなるまで遺跡たちを見つめる。重なる遺跡、重なる木霊、こぽこぽと水面へ上がっていく細かな泡。
やがて耐えきれなくなって水面から顔を出すと、どっと熱い夏の熱気が私を包み、まばゆい光が目を打った。今まで感じていた哀感はすぐに溶け消え、私は生まれ変わったような快感に打ち震える。私は今生きている、それだけのことが嬉しくて岸辺に向かって泳いでいく。そしてプールから上がるころには、私の幼い心は渇いた喉をレモンシャーベットで癒す計画でいっぱいになってしまうのだった。

あれから二十年ほどの年月が経ち、私は今、赤廊館の敷地の中にたたずんでいる。
塀の外から見る赤廊館の敷地は一見森にしか見えない緑の化けものだったが、ジャベール氏の手によってつけ直されたらしい真新しい門の鍵を開けて内部に入った途端、私の視界には懐かしい花が飛びこんできた。

「アカンサス。神の棘」

口の中でつぶやいて、私は日差しに目を細める。
真っ白な光は目の前の高い石壁に降り注ぎ、鬱蒼と茂った草に降り注ぐ。中でもひときわ天高く伸びて花をつけている一群がアカンサスだ。ぎざぎざした葉の群生の中から立ち上がった長い茎、そこにびっしりとついた棘と桃色の花。
昔、あの保養地で私が泳いだ遺跡のプールの脇にも、この花が咲いていたような気がする。そう思った途端にあのプールで感じたやるせなさが胸の内に湧き上がり、私はアカンサスに指を伸べた。この花には何やら古い物語がついてきたはずだ。かつて地中海沿いで聞いた話を思い出そうと私が努力を始めたとき、不意に誰かの声がする。

「アカンサスの物語について、考えていた」

耳を撫でるかのような優しい声にぎょっとして、私は小さく後ずさった。
声の出所を探る私の視線は、すぐにアカンサスの隣へたどりつく。うっそりと茂った低木の下、雑草だらけの地面に、灰色の髪が零れて夏の光にきらめいていた。
ぼんやり見渡しただけでは下生えの色に紛れてしまうが、確かに人の髪だ。低木の下に転がっていた人が緩慢に寝返りをうつと、その髪もまた静かにねじれ、よじれて彼についていく。

「――あなたは」

私はまだ少し驚きでかすれた声で彼に言葉を投げる。
彼は白い顔に木漏れ日を受けながら、まだ起きようとはしなかった。
片腕を下にして転がり、薄い目蓋を閉じたまま、灰色の髪の青年は囁く。

「太陽の神が娘に迫って引っかかれて、腹いせに娘を棘のある花に変える話だ。……逆恨みだよね。神様っていうのは、いつもそんなことばっかりしてる。暇なのかな」

言い終えて唇に笑みを漂わせ、青年はさらにさらにくすくすと笑う。
少し頭がおかしい人なのかな、と反射的に私は思う。彼は初対面の私に対してあまりに無防備だし、話すことも唐突だ。けれど私はすぐに自分の考えを手放した。彼の言葉には明らかに知性が宿っていたし、彼の語る物語には聞き覚えがある。
おそらく彼はぼんやりとした詩人なのだろう。私と対話する気ではなくて、ただもうろうと言葉を紡いでいるだけなのだろう。そう思って、私は慎重に何歩か彼に近づいた。

驚きが収まった後は特に怖いとは思わなかった。彼は見るからに華奢で、地に投げ出された細い手首には静脈が青く浮いている。白磁の頬にはいっさい血の気がなく、唇の色も悪かった。いかにも不健康そうなうえ、その血色の悪さは気力の萎えからも来ているのだとひとめでわかる。この人が三十近い冴えない女(つまり私)を襲うなんてあり得ない。
私は彼の頭の近くに立ち、少し途方に暮れた顔で彼を見下ろして告げた。

「……神様には、仕事はたくさんあったはずだと思う。アポロンは戦車でいつも空を駆け回ってたんじゃなかったっけ?」
「そう。僕とは逆だな」

青年は寝言のようにつぶやき、目を閉じたまま胸の上で両手を組む。
そうしていると彼はまるきり棺桶の中に入った人のようで、私はますます途方に暮れた。
ざっくりとした白いシャツに少し古風なスラックス。歳の頃は私より大分若いのではないだろうか。まじまじ見つめてみればその顔立ちはあまりに繊細で、体の痩せ方は私の心を著しく不安にさせた。

「あなた、どこからここに入ったの? こんなところで寝ているより、風通しのいい部屋にでもいたほうがいいんじゃない?……言い方は悪いかもしれないけれど、あなた、あんまり具合がよさそうには見えないよ」

私は勇気を振り絞って言ったが、青年は綺麗な寝顔をさらしたままだ。
目蓋をぴくりともさせず、薄い唇に緩やかな笑みを含む。
そうしてやがてゆっくりと目を開けて、私を見上げた。
私はどきりとして視線をそらしかけ、ふと違和感を覚えてもう一度彼を見下ろす。彼の瞳はまるで霧の町の黄昏のような、少し灰色がかった紫色だ。こんな夏の日を受けてもすっきりと澄み渡ることはなく、物憂げに濁っている。
彼は真っ直ぐ私を見上げていたが、なぜか二人の視線は交わることがなかった。
すり抜けている。
彼は私の目の後ろ、頭の後ろ、遠くを見つめているような目で笑って言った。

「ああ。もう、続きを描くよ。あんまり時間もないからね。マルグリット」

私は緩やかに瞬く。
彼は音もなく体を起こすと、そのままふわりと私の横をすり抜けて緑の中の小径へ歩を進めた。私はすぐには歩き出さずに、視線で彼を追いかける。怪物じみた緑の中、木々の間からちらちらと見える館に向かい、彼は灰色の髪を揺らして歩いていく。彼の歩みはややたよりなくふらついていたが、迷いはなかった。彼は赤廊館をよく知っているのだ。

彼の姿がすっかり緑に呑まれた後、私はしばらくひとりだった。
ぶう、ん、とどこかで蜂が飛んでいるような音がする。
私はしばらくその場で目を閉じ、さんさんと降り注ぐ太陽だけを感じていた。ぬるい汗が肌を這い、シャツとデニムに染みこんでいく。目蓋の裏でちらつく黄色をしばらく眺めてからもう一度目を開き、私はゆっくりと青年の後を追った。
草に覆われかけた敷石をパンプスの先で探り当てながら先へと進むと、緑の匂いが肺の奥まで入ってくる。私は何度か小さく咳き込み、張り出した枝をかき分け、さっきからちらちらと見ていた館の前に出る。

私の前に姿を現した赤廊館は、ジャベール氏のファイルにあったそのままの姿だった。
貴族の館とまではいかないけれど、それを意識して造られた形と大きさなのはよくわかる。四つの尖った屋根を持ち、入り口にはわざとらしい新古典主義風の円柱をそなえた館。
壁は全て白く塗られていたけれど、ペンキはあちこちではげかけていた。生い茂った木々の葉が赤い屋根に溜まって腐り、その重みに耐えかねてあちこちが歪んでいるのが見える。もはや自重すら支えきれない、と言わんばかりの壁には、鳥やリスが住むのにちょうどよさそうな穴や隙間がぽつぽつ空いている。写真の印象とまったく同じ、むしろ少し崩壊の予感が生々しくなっているくらいに無残な館だ。

――赤廊館は死んでいる。

まるで巨大な白骨死体みたいに、緑の中にうずくまっている。
私は途方に暮れて瞬き、ゆっくりと館の扉へと歩み寄る。
なぜだろう、私は緑の向こうに健全な赤廊館が現れることを期待していたようだった。
好き放題茂った木々も赤廊館の周りでは島国風のナチュラル・ガーデンと化し、建物は数日前に塗り直されたような顔でしれっとたたずんでいるのではないか。そんなふうに思った。そんなことがあるはずもないのに、そう思ってしまいたくなるほど、さっきの青年の歩調は日常的だった。何か特別な冒険をした人の気配はどこにもなかった。ただ、自分の家に帰ろうという歩調で彼は歩いていった。

青年はこんなあばら屋に『帰って』行ったのだろうか?
私はどうにも納得しがたい気持ちで、元は真っ赤であったであろう扉に歩み寄る。さび付いた鍵の残骸をまとわりつかせて、息も絶え絶えに薄く口を開いている扉の隙間からそっと内部の様子をうかがってみると、かすかに灯油のような匂いがした。
灯油――いや、少し違う。もう少し、体に心地よく沁みる匂い。

私は錆の浮いたドアの取っ手をつかみ、なるべくそっと引き開けた。がたがたとゆらめきながら扉は開き、黴と水の腐ったような臭いが鼻を突く。いかにも生々しい腐臭の中で、油の匂いだけがやけに端整な印象で漂っていた。
電気など通っているわけもない館だったが、あちこちに開いた隙間から夏の日が差し込み、辺りは薄ぼんやりと明るい。私は肩にかけた鞄から懐中電灯を出すかどうかしばらく悩み、結局自然光に頼ることにした。懐中電灯は遺跡には似合うかもしれないが、私が入って行こうとしているのは古びているとはいえ、館なのだ。

私は慎重につまさきで廊下を探り、なるべく軋みが少ないところを選んで歩いていく。館の名前の通りと言おうかなんと言おうか、この廊下も扉と同じくもとは真っ赤に塗られていたらしい。今ははげかけていて愛らしくも見えるけれど、昔は随分不気味だったことだろう。私の同志はいささか病的だ。
結構な時間をかけてたどり着いた廊下の果ては、吹き抜けのさして広くない広間のようだった。奥には崩れかけた暖炉と朽ちかけた螺旋階段があり、その横の扉の隙間からひときわ明るい光が零れている。つんとする油の匂いもそこから漂っているように思え、私はすり足で足下を確かめながらその扉へとにじり寄った。

すっかりニスのはげた扉の隙間から中を覗くと、緑と一緒に灰色の髪が見え、私は大慌てで扉を開ける。そのひょうしにかろうじて扉を壁にくっつけていた蝶番が一部外れたようで、がたん、と音を立てて重い木の一部が床に触れた。
私は飛び上がりそうになったが、室内の青年はこちらへは目もくれない。私は少々ほっとした後、その場所の圧倒的な美しさに瞬いた。まるで一枚の絵が目の前に展開されたような、あまりに現実離れした光景だった。

さんさんと光が注ぐそこは、元はサンルームだったのだろう。
八角形の部屋を囲んだ八枚の硝子はどれも美しくヒビが入り、あるいはすでに半分くだけちって床に散らばっている。そうして砕けた硝子の隙間からは節くれ立った木の枝がよじれながら幾本も室内へと入りこみ、惜しげもなく葉を茂らせ、まるで現代美術か緑のインテリアみたいに部屋を飾っていた。緑と対照的な赤い絨毯は何度も雨を吸い込み、乾き、再び雨に濡れたのだろう。今ではすっかり毛足を失ってつるつるだ。その上に散らばった木の葉は見ようによっては暗色の花柄を絨毯に織り込んでいるかのようだし、砕けた硝子は床にばらまかれた宝石のようにちかちかと輝いている。

そんな部屋の真ん中で、美しい青年はひとりスツールに腰掛けていた。
すっと延びた彼の背に、灰色の髪に、木漏れ日は惜しみなく降り注ぐ。
淡い光をまとった彼は、目の前の画架と向き合って絵を描いている。傍らの円卓に載せられた白い大理石の板の上に色とりどりの絵の具がひねり出され、無数の筆が円卓からあふれて床に零れ落ちているのが見える。
そして、彼のカンバスに描かれているものを見た瞬間、私の胸は鋭く痛んだ。
そこにあったのは女の裸体画だ。
あばらの浮いた裸は、一瞬男かと思ってしまうような中性的なもので、性的なアピールは一見見あたらなかった。しかしだからといってみそぼけないということはない。痛々しくもやけに堂々と神々しく体をひねる女は、逆に女神じみた何かにすら見える。

アカンサス、と私は思う。
アカンサスの伝説。アポロンをひっかいたただの女。そんな役割こそがふさわしいのかもしれない、この女には。ならば、アポロンは誰。

私が瞬くと、目蓋の裏をあの夏のプールの光景がかすめた。プールの底に沈んでいた彫像。あれはアポロンだったのだろうか、などと私は妙なことを考え始める。
私の影が、アポロンの頬に落ちる。シミのように。もしくはかすかな爪痕のように。
神の栄華でさえもいつかは全て崩れ落ち、ただの女の爪は神をかすかに傷つける。

私がしばし呆然と思い出の印象に酔っている間に、青年の髪が緩やかにその肩を滑り、彼は小さく咳きこんだ。咳に疲れたような力ない咳だ。
私は急いで彼に歩み寄りかけ、うっかり腐った床板に足をとられた。絨毯の上からだったせいで大いによろけただけですんだが、剥き出しの床板だったら踏み抜いていたかもしれない。恐怖で躍り上がってしまった心臓をもてあまし、私はかすかに震えて息をする。
その間に青年はかすかに顔を上げ、やんわりと微笑んだ。
私のほうではなく、画架の向こう、誰もいない空間を見つめて彼は囁く。

「――大丈夫だよ、ありがとう。水を飲むと、かえって悪くなることがあるから。このまま続けよう、マルグリット。今日は、筆の調子はいいみたいだから」

私は絨毯にうがたれたくぼみから慎重に足を引き上げて、ぼんやりと瞬いた。
ああ、そういうことなのか、と思う。この青年は、目の前にモデルを置いて絵を描いているのだ。たとえ今は居ないように見えても、きっとそのようにして描いている。そして、私のことなど見えてもいない。
彼は過去にいる男だ。
その証拠に、彼はマルグリットと口にした。
マルグリット。
――そう、私にこの館を遺した女の名前こそ、マルグリットではなかったか。

今まではさして気にもしなかった名前だが、確かにそうだ。私にこの館を遺した大叔母。彼女は一体どんな人間だったのだろう? 改めて思い出してみようと思っても、長い親戚嫌いのおかげで記憶はあまりに曖昧だった。
しかし数十年前のマルグリットは、今私がカンバスの中に見ているような女だったのだろう。美しくて気高く、棘のある女。
物憂さの中に情熱を秘めて、じっとこの青年を見つめていた。

私は胸に宿った鋭い痛みが、やがて鈍く根強いものとなって広がっていくのを他人事のように感じていた。彼と視線が合わないのは当然だ。彼は過去を見ているのだから。
私はゆっくりと前へ移動して、彼の横顔を眺めた。皮肉なことに、向こうから見えないのだと思うと、少し不躾に彼の顔を観察することができた。
彼は本当に驚くほど美しい。それこそ古代の彫像のようなその横顔。繊細な鼻梁に、薄くても少しも薄情そうではない唇。生気を欠く瞳が追うのははるか遠く、あらぬところを眺める灰色の猫のよう。

私がそうしているうちに、彼はまた酷く咳きこみ始めた。
どうしようもないのでただたたずんで見つめていると、彼の咳はどんどん酷くなっていく。喉が奇妙な音を立てて鳴り、顔色が悪くなる。胸に鈍い焦燥感が生まれ、私は辺りを見渡す。マルグリット、どうかこのひとを助けてあげて。けれど当然マルグリットの姿はどこにも見えない。
振り返れば、まだ青年は円卓にすがって咳こんでいる。私は思いあまって彼に手を伸べる。私の今までの予想がすべて間違いで、彼がただの少しぼんやりとした実在の人間ならいい、と必死に願って手を伸ばす。けれど私の手はどうしても彼には触れられず、向こう側の円卓にばかり当たってしまう。すり抜けた覚えはないのに、なぜか夢のように彼に手が届かない。

しまいにかすかな痛みを感じ、驚いて手を引くと、指に木の棘が刺さっているのが見えた。そんなかすかな痛みが、ますます私の心を弱らせる。
青年は、咳の合間にどうにか笑って言う。

「大丈夫――もうすぐだから。描き終える、までは……マルグリット」

描き終えるまでは生きている?
だったら、描き終えたらどうなるの?
あなたは、本当のあなたはいつ、どうやって死んだの?
そしてあなたの死体はまだ、この赤廊館のどこかにうずくまっているのだろうか。
この館はあなたの墓みたいなものなんだろうか。

「あなたは」

震えて唇を開いた途端、また不吉な咳の音が辺りに響き渡った。心臓が一気に震え上がり、私の体はすっかり冷える。どうしよう。どうしようもない。これは夢だ、過去の夢だ。私は過去の痛みに捕らわれているだけ。
ここから逃げよう、と心のどこかががなりたて、私は身を翻す。自分が踏み抜いた穴に足をとられないよう、懸命にサンルームを出る。斑な陽光に彩られた赤い廊下を駆けていく間も、背後から苦しげな咳の音が追ってくる。そして刺すようなテレピン油の匂い。赤い廊下が私を笑っているような気がする。

だから来るなって言ったんだよ、とっととお帰り!

人嫌いの私の同志、マルグリットが高笑いをしている。

お願い、マルグリット、あのひとを助けてあげて。どうにかしてあげて。私は心の中で泣きながら叫ぶが、マルグリットは返事をよこさなかった。
私はとにかく赤い廊下から逃れ出て、そのまま館の敷地から駆けだして行った。
とにかく、外へ出ればどうにかなる。どうにか。そうとだけ思って無我夢中で敷地から抜け出した後、私はしばらく公衆電話の周りをうろつき、救急車を呼ぶかどうかで悩んだ。

……けれど結局のところ、私がやったのは、ワインをひと瓶買ってホテルに帰ることだけだった。

◇ 

「マルグリット・オービニエさんに、旦那様はいらっしゃいませんでした」
どことなく気鬱に取り憑かれたまま過ごした夏の休暇の後、遺産管理人ジャベール氏は淡々と私に告げた。その答えが少々意外だったので、私はのろりと瞬く。私はあの青年の幽霊のことは何も言わず、ジャベール氏に大叔母の近辺について訊ねたはずだ。

「――では、恋人は?」
「さすがにそこまでは存じませんが、親戚の方々のお話によりますと、オービニエさんは極度の人間嫌いだったそうですな。随分お若い頃からあの館に閉じこもり、生涯独身。お客が来ても自室にこもって凄まじい音でラジオをかけるので、大抵の人間は出て行くしかなくなるのだとか」

言われてみればそんな噂を聞いたことがあるような気もする。ジャベール氏の言うことが確かなら、彼女の人間嫌いは相当なものだ。
そんな彼女の館にああも入りこんでいた青年は一体何者なのだろうか。
私が首をひねって沈黙していると、ジャベール氏は淡々と、

「それで、あの館はどうなさいます? いい館だったでしょう。視線の合わない灰色の猫のようで」

と告げた。
私ははっとして顔を上げ、ジャベール氏を見つめる。ジャベール氏はあいかわらず死んだ魚の目でこちらを見つめ返す。なんだろう? 彼は何かを知っている? それとも、ただの偶然なのだろうか。私は自分があの青年を灰色の猫のようだと思ったことを思い出しながら、彼の目を見つめ返して問いを投げる。

「ジャベールさん、あなたも赤廊館に行かれたことはあるんですよね?」「ええ、行きましたよ。その写真を撮りに行ったときに、会ってきました。もう死にかけですが、あれは実に従順でいい館です。未だに一途に以前の主人である大叔母様を愛しているようでしたからね。とはいえ、今の館の主人はあなたです。あなたが親身になって館に手を入れれば、彼はきっとあなたのものになるでしょう」

――どうしますか?

と、ジャベール氏は私に真っ直ぐに訊いてくる。
私の唇は小さくあえぎ、胸の中には熱いものが宿った。懐かしい夏の陽光じみた喜びと絶望が同時に胸の奥で震え、私はどんな表情を浮かべていいのかわからなくなる。

なるほど、そういうことなのか。

ジャベール氏には見えたのだ。彼の目はすっかり死んでいるから、死んだものばかり、遺されたものばかり見つめているから、『赤廊館』そのものである青年がはっきりと見えたのだ。
愛しいマグリットに置いて行かれた彼は傷む身体を引きずりながら、未だに彼女の思い出とダンスを踊っている。彼女は彼をひっかいた小さな棘だ。その小さな傷から、彼は緩やかに腐り続ける。すてきだ。ああ、でも、何よりすてきなのは、私には彼を救う方法があるということだ。救急車を呼ぶよりよほど確実な方法が。
私は先ほどまでとは一転して声が浮き立つのを感じながら、ジャベール氏に告げた。

「私、あの館に手を入れようとは思いません。――できれば完全に朽ち果てるまで誰も人間が入らないように施錠して、あのまま放置していただきたいのです」

嬉しそうに言う私を、ジャベール氏が見つめる。
その瞳に非難の色はひとかけらもない。

「では、そのようにいたしましょう」

鍵を閉める音みたいに彼の声が響き、私はうっすらと微笑んで彼にお礼を言った。
必要な手続きをすませてから真っ赤な傘を取り、私は狭い階段を駆け降りる。飛び出した道は小じゃれた店の並ぶ都会の通りだ。ぬるい雨が降っている。私は傘もささず、小さく歌い、踊りながら道を行く。
いくらかの人々が不審そうに、いくらかの人々が微笑んで私を見ているのがわかる。
きっと恋人とうまくいったのね、なんていう囁きが聞こえる。
そう思ってくれても事実とそうは遠くない。私は浮かれていた。みんなにこの胸を裂いて中身を見せてあげたいくらいだ。

今この胸を裂けば、肺の中に巣くったあの緑が零れてこの石畳の道を覆ってしまうに違いない。洒落た看板は苔むし、木製のベンチは腐り落ちる。慌てた人々が私の胸の奥をのぞき込めば、そこには今しも腐って消えようとする白い館が根を張っているのが見えるのだ。

私は雨に濡れながら赤廊館を思う。あの館の中で、青年は今日もまた絵を描くだろう。自分をすら支えきれなくなった体を引きずり、ヒビの入った肋骨を押さえながら咳きこみ、咳きこみ、それでもうっとりと濁った目で愛しい主人の絵を描き続けるだろう。そしていつか死んで腐っていくだろう。
私はそれを止めない。私はあなたを手なずけたあげく置いていったりしない。

愛しい赤廊館。傷ついたアポロン。あなたは私のものだ。
私はあなたを看取ってあげる。あなたを棘にしてあげる。ほどけない結び目を作ってあげる。

あなたはあの夏のプールに沈んだ神殿の代わりに、私の夏の思い出に刺さった小さな棘になるのだ。


※別名義同人誌より再録

※スキを押すと適当な色占いが出ます。

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