厳格と寛容、厳しさと優しさ。
他人に寛容なことと、自分の意見を発さないことはイコールなのか。
他人に厳しくあるのなら、自分に厳しくあるべきだ。他人に求めるものと同等のものを、己は持つべきだ。それができないのであれば、他人には寛容であるべきだ。
私は「○○すべき」という言葉が、あまり好きではない。かくあるべき、と誰かが言うときそれはその人の正義であって、世の全てに適用されるものではない。「○○すべき」は「私は○○しないといけないと思う」くらいの気軽さで使っていい言葉でないと感じている。「すべき」という3文字は、他人を縛る呪いだとすら思う。
100人いれば100人の人生があり、100人の考えがあり、正義があり、それに至る経験がある。己に「かくあるべき」と課すのは構わない。ただそれを、他者に押し付けてはならない。
これは、私はそう思っているというだけの話である。
「他人に寛容であるべきだ」という人は多い。言葉の定義を擦り合わせないまま、人は自分の中の「寛容とはこうあるべきだ」を押し付ける。
寛容という言葉の辞書的な意味は「こころが寛大で、よく人を受け入れること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。」だそうだ。
では、寛容であることと自分の意見を口にすることは同時に成立するのか。
私は成立すると思う。
他人を受け入れて、その上で自分の意見を言うことは寛容だろう。たとえ、受け入れた考えが自分と違うものであったとしても、「この人はこう思うんだな」というだけだ。
「あなたは全ての親は子供を愛すると考えているのですね」と「私は、子供を愛さない親もいると思います」は同時に存在できる。
「あなたが私を殴ったことを許しましょう」と「私はあなたに殴られて痛かったです」は同時に存在できる。
その上で考えたい。「私は〇〇だと思う」に「わたしはそう思いません」と言葉にすることは、寛容ではないのだろうか。
表面上のやり取りだけを切り取れば、確かに寛容ではないだろう。言葉の使い方によっては、攻撃的ととられるかもしれない。
受け入れ許すことと、自分の考えを示すことは別軸の話だ。
私はこう思う、あなたはこう思う、いろんな考えがありますね。それじゃだめなんだろうか。
私にだって、どうしても受け入れられないことはある。私の中の正義が許さないと叫ぶから、私が私であるためのルールが「その一歩だけは踏み外すな」と訴えるから、その時は「許せない」と口にする。
誰も彼もを許すことはできないし、誰も彼も受け入れないわけではない。
友達を悪く言われた時。大事な人を傷つけられた時。自分の心の柔らかいところを踏み躙られた時。自分の心を犠牲にして、他人を許すことはできない。
私にはできない。だから、他の人もしなくていい。許せないなら許さなくていい。私も許さないから、あなたも許さないでいいよ、と思う。
ただ全てを肯定すること、優しくあること、甘やかすことが寛容ではないと思う。
できるだけ受け入れたいという姿勢でいる。いろんな考えもあるよね、と思っている。自分の考えを押し付けちゃいけないと思う。
でも、「あの人嫌いだなぁ」とか「苦手だなぁ」とか「その考え方私と違うなぁ」と思うことも言うことも、許されたい。私に寛容であることを求めるなら、あなたも私にできるだけ寛容であってほしい。
違うと思うなら、違うと言っていい。受け止めて、「私はこう思うよ」と言って欲しい。
許せないなら、許さなくていい。
ただ、あなたが私を許せないというのなら、私はあなたに「さようなら」と手を振るだけだ。私があなたを許せないときも、私はあなたの手を離すから。
※これは、全て1対1のコミュニュケーションまたはクローズドなコミュニケーションに関するはなしです。X(旧:Twitter)等オープンなSNSや普段会話等をしない他人に対して、いきなりリプライ等で自分の考えを押し付けるようなコミュニュケーションについては例外とします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?