大人の私が「子供の私」を否定するのは、子供の視点を失ってしまっているから

この前、「自分にはチカラがない」が自分の人生の脚本だと書いたのだけれど、しばらくしてちょっとなにかが足りない気がしていて。

なぜなら、「自分にはチカラがない」んだとしたら、人生の早い段階で絶望して自分で命を絶っていたと思うんよ。
でも、今現在までそうしてない。

ってことは、「自分にはチカラがない」→ENDで終わらないなにかがあるってことなんじゃねえ?って。
「自分にはチカラがない」の中に自分でも気づいてない隠された可能性があるんじゃねえ?って。
自分の思い込みを悪いもの・ネガティブなもの決めつけてるんじゃないの?って。

***

人はある出来事が起きたとして、それを自分固有の思い込みで受け取って、反応してしまう。

出来事→思い込み→反応

例えば、僕の場合、

【出来事】職場から退職する人が出た
【思い込み】自分のせいだ、自分は無力だ、自分にはチカラがない
【反応】ショックを受ける、落ち込む、憂鬱になる、自罰感に浸る

この思い込みの部分を「自分にはチカラがない」「無力だ」と言語化して、これが自分のパターンだ、人生の脚本だ、もうずっと繰り返してる〜と思っていたんだけれど、ここで思い込みに対して悪いもの・ネガティブなものっていう決めつけがあるなって気づいたんよ。

思い込みって、その人が生きるために必要だったから無意識に身についてしまったものだと思っていて。
その人にとっては必要だった、けれど大人に成長するにつれ合わなくなってきてしまうものもあるんだろうなって。

ってことは、いいも悪いもないんじゃない?と思ったら、あの思い込みは悪いもんじゃあ〜邪魔なもんじゃ〜って決めつけている自分がぽっかり浮かび上がってきて。

それは子供時代の自分をすっかり忘れていて、大人になった自分の視点でしかものごとを考えられなくなっている状態なのかな。
そうなると、今の大人の自分に都合がよくないものは「悪いものだ!」と決めつけてかかってしまうのもわかる気がする。

***

「自分のせいだ、自分は無力だ、自分にはチカラがない」
一度言語化したこの思い込みを別の角度から言葉にしてみると、次のようになった。

・もっと努力しようよ!
・まだまだがんばりが足りないんじゃない?
・キミはまだやれるよ!
・改善・工夫できるところはない?
・次はどうしたらよい結果につなげられるだろう?

努力や頑張り方を一度見直してみたり、次のために改善や工夫する余地を考えられるんじゃないか。
そういう自分がいるんじゃないか。

と思い馳せたときに、というか、これまでもそうだったよなと。
そうそう、「自分にはチカラがない」と感じた場面は過去に何度もあって、その度にそこで終わらないで、自分なりに働き方ややり方を変えてきた。
そして、またチャレンジしよう、もう一回トライしてみよう、再度試してみようってやってきたなあって。

だから、死なないで、廃人にならないで、世捨て人にならないで、ギリギリどうにかこうにか今の今までやってきたんだよなあって。

「自分にはチカラがない」は、「チカラが及ばなかったのはどうしてだろう?と振り返られる」と再解釈できるし、実際にそうして生きてきていた。
こうして書いてて自分でもびっくり。
やってきてたんじゃん。

***

「自分にはチカラがない」と無力感に苛まれる自分。
そして、常に改善や工夫を模索して諦めないでへこたれない自分。
その両面があって絡み合っている。


改めて自分の人生の脚本はそういうストーリー構成になっているなあって思ったんだよね。

片面しかないと思ってしまっていたのは大人になった自分から子供の視点が失われていて、だから、子供の私が必要だったものが見えにくくなっていたんだと思う。

大人の自分は、たびたび「子供の私」を否定してしまいがちなんだけど、そうなってしまうのは子供の視点を失ってしまっているからなんだろなー。


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