「私にはチカラがない」人生の脚本

働いてる職場でつい最近入った職員さんが一ヶ月で辞めることが決まった。
と知った瞬間、とてつもない無力感に襲われた。
心臓をグッとわし掴みにされるような感覚。

そして、こう思った「私にはチカラがない」。

僕が新しい職員さんと関わることはそれほど多くはなかったけれど、その人も含めて全体が円滑に働けるよう、気を遣って動いていた。
それだけに、新しい人が一緒の環境に来て、そして、去っていくあまりの早さにショックが抑えられなかった。

自分はもっとなにかできたんじゃないか、こうしていたらよかったんじゃないか、、、あれこれと思い返しては後の祭りであることに呆然となる。
で、自分の無力さに「私にはチカラがない」とこぼす。

けれど、一方で、気づいたのよ。
自分の役割・立場を越えて、自分ごと以上のことを背負って無力感に苛まれている自分に。
「私にはチカラがない」と強烈に自分を卑下してまでひとりで考え込んでしまっている自分に。

***

つい先日、自分以外のアダルトチルドレン当事者の話を聞く機会があって。
そこで感じたのは、境界線(バウンダリー)がとてもグチャグチャになっているということだった。

相手の問題を自分ごととして引き受けてしまっていたり、あなたが首をつっこむところじゃなくね?ってことを平気で侵入してしまっていたり。
自分と他人との間に線を引くことがとても難しいんだなって。
そもそも境界線ってなに???限度?節度?なにそれレベルというか。

そう感じていただけに、自分が自分の責任を越えてまで相手や職場のことにつっこんで、そしてひとりで思いつめている状態な自分に気づけたのかな。

おいおいキミキミ、なにひとりで責任を感じて苦しんでるの?勝手に無力感を感じて呆然としてるの?って。

***

思えば、僕がこうして無力感を感じて自分を卑下してきたのは、これまで何度もあった。
パターンとして、人生の脚本としてもう何度も繰り返されているということか。

その原型はどこから来ているのかと思い出してみると、お兄ちゃんの存在が浮かび上がる。
5歳上の兄。

小さい頃は一緒に遊んでくれた、兄の真似をして、ゲームやマンガ、音楽を取り入れて、それは今なお自分の好き嫌いに影響を与えていると思う。
その兄が歳を重ねるにつれ、食卓で家族とご飯を食べなくなり、ひとり部屋にこもるようになり、そして、僕に対しても冷たく突き放した態度をとるようになっていった。

兄の好きなゲームやマンガを持ち出しては一緒にやろうと誘ってみるも、よい返事は返ってこなかった。
それがとても悲しかった。
彼とはもう何年も会っていない。

それ以外にも、祖母と両親の不仲。
子供ながらもその関係性のまずさは察していて、だから、それとなく両者の愚痴に乗ってみたり、間をとりもったり、あるいはその面倒くささに絡まれないようにしたり。

子供の自分が頑張ったところで兄の冷たい態度は変わることはなかった。
子供の自分が頑張ったところで祖母と両親の不仲は変わることはなかった。

いい子でいても、優しくしても、間をとりもっても、愚痴を聞いても、なにも変わらなかった、報われなかった、よい結果になることはなかった。

***

そのシナリオを大人になった今も繰り返し再演してしまっているのかもしれない。
登場人物が家族から職場の人間になっても、筋書きは変わらない。
だから、真面目に取り組んで、あちこちに気を遣い、頑張りに頑張りを重ねた結果、無力感を味わうというショッキングな展開。
そして最後は「私にはチカラがない」というセリフで幕が閉じる。

人生の脚本がもうずっと変わっていないんだな。
そう、変わっていないことに気づけた。

大人になった今の自分からしたら、なんてバカバカしいストーリーって思うけれど、子供の自分にしてみればこの筋書きを演じなければきっと命がなかったんだろう。
つまりは、死に物狂いで生み出した超大作ってことになるんじゃなかろうか?

だから、この脚本をバカにできないなって。
この物語の構成を改めて噛み締めつつも、これからは大人になった今の自分が味わってみたいお話を生み出していくって感じなのかな。

っつーてますけども、お話の続きが自分でも分からなくて、なんか、けっこうヤバみ〜

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