見出し画像

私がわたしである理由20

[ 前回の話… ]


第十一章 終焉の始まり(2)


「ううう…ふ…ふ…う…うう…」
積子は誠司の腕にしがみ付きながら、周囲の惨状から目を伏せ、ただひたすら涙を流し続けている。
「何とか逃げ切った人も沢山いるんだから、親戚の方達もきっと大丈夫だよ…」
誠司は何とか積子を慰めようと、2人で歩いている間中必死に話し掛けたが、その言葉は彼女には全く届いていない様子だった。

下町を何とか抜け出し、丸の内の市電操車場に辿り着いた時には、被災地を覆っていた焼け跡の煤や煙で2人とも服も顔も薄黒く汚れてしまっていた。
誠司は2人の服の煤を払い、停車場広場の水道を借りて顔を洗い、手拭いを濡らして、積子の顔から煤と涙の汚れを丁寧に拭ってあげる。
積子はただ黙って身を任せていたが、両眼から溢れ出る涙は止めることはできなかった。
「よしっ、さ、これで少しは綺麗になった…積子さん、兎に角、家に戻りましょう」
誠司が覗き込む様に語り掛けると、積子は小さく頷く…

丸の内から大崎広小路までの市電は間引き運行状態で、車内は下町を逃れ、山手に向かおうとする人々で満員の状態だった。
乗客は皆虚ろな表情で、移動中会話を交わす人は殆どいない。
積子は俯きながら誠司の腕にしがみ付き、車両の床に涙を落とし続けていた。

「お嬢ちゃん、さぞかし大変だったんでしょう。お席を代わりましょう。どうぞ、こっちに座って頂戴」
積子のただならぬ様子を見て、何かを察したのだろう。目の前の座席に座っていた中年の女性が積子に優しく声を掛けた。
「積子さん、わざわざそう仰って頂いてるんですから、座らせて頂いたらどうですか?」
誠司が勧めるが、積子は口を結んで首を横に振り、誠司の片腕をさらに強く掴み直した。
「まあ…余程辛い思いをされたのねえ。お気の毒に…」
「どうも…すいません。このままで大丈夫です…有難うございます」

街には、他にも一晩の業火を辛うじて逃れて来た人々があちらこちらに見られた。どの人も煤で汚れた身なりで、僅かな荷物を抱え、生気のない様子で足を引きずる様にそれぞれの目的地に向かってひたすら歩いている。
被災地域と異なり、山の手地域はいつもと変わらない街並みを留めてはいるものの、その様相はがらりと変わってしまっていた。帝都への思いも寄らない大規模な空襲は、人々の心の中に、この戦争の行く末に大きな不安を芽生えさせていた。


「ごめんくださ~い。ただいま戻りましたあ!」
誠司が藤村家の玄関の引き戸を開いて、中に声を掛けると、きくがいそいそと奥から現れる。
「おや、川出さん、随分お早いお帰りで。主人たちも一緒ですか?」
「いえ、僕と積子さんだけ、ちょっと一足先に…」
積子は母親を見上げると、もどかしそうに靴を脱いで上がり、きくの胸にしがみ付くように飛び込んで、声を上げて泣き始めた。
「な、なんだい、この娘は…何かあったんですか?」
「いや、実は…下町の方は酷い有様で…」誠司は下町の様子と、ことの経緯を手短に説明した。

「まあ…そんなに酷いんですかあ…」
「ええ、積子さんにはとてもまともに見られない様な惨状で…余程胸にこたえたんだと思います。帰り道もずっと泣き続けていらっしゃって…一度休ませて落ち着かせてあげてください」
「本当にお手数かけてすいません。こんなとこで立ち話もなんですから、上がって一息入れていって下さいませな」
「いや、下町方面があの惨状ですと、家の方にもまだ避難して来る知り合いがいるかも知れませんので、僕は一度家の方に戻って、母にも状況を伝えておきます。ご主人達は夕刻には戻ると仰っていましたので、明日にでもまた出向きますと、お伝え頂けますか?」
「分かりました。積子のこと、本当に有難うございました。ほら、積ちゃんもお礼を言いなさい」
母親からそう言われても、積子は顔を上げようとしない…
「いえ、いいんですよ。積子さん、明日また様子を見に来るからね。あ、そうそう、僕の手持ちの本を少し持って来てあげるね」
そう言われると、積子は母親の胸から顔を上げ、誠司に向かって小さく呟いた…
「ありがと…」


世田谷の深沢に建つ瀟洒しょうしゃな洋館官舎を訪れたのは、軍務局二課の山辺中尉だ。
洋間の応接で迎えたのは元兵備局課長、和装の石田大佐だった。
山辺中尉は憲兵隊の冴島中尉との話の内容について詳しく報告した。

「なるほど…しかし、川出という新任翻訳官は、確か大森中将殿の縁戚ではなかったか?」
「はい、仰せの通りです。ですので、そうそう迂闊には手は出せないかと…」
「うむ…今回の傍受内容は見事に的中しておった。聞くところによれば、民間被害の甚大さに陛下の御心情は大きく終結論に傾き始められたということだ。外務省筋の方にも、もっと積極的に講和の道筋を探る様、御達しがあったらしい」
「軍令部もその方針で動き始めるということでしょうか?」
「いや、あくまでも一部の終結論者だ。多くは黙ってそれを受け入れた訳ではない。南方はほぼ奪われたとはいうものの、空爆後の上陸に際しては、我が軍も敵に相当な打撃と損害を与え続けている。問題は今後の敵の動きだ。敵側も本土爆撃には多大な軍事費を費やさねばならん。早い時期に上陸、本土決戦に引きずり込むことが肝要だと、軍部の多くの者が考えているはずだ」
「しかし、陛下は早期の終結をお望みなのでは…」
「これ以降も、多くの民間人が犠牲になるのであれば、そちらに大きく舵を切られるだろう。その情報を与え続けているのが、大森中将を筆頭とする終結論者たちなのだ。これ以上敵の爆撃情報を陛下のお耳に入れることになれば、早々に我々の動きも封じられることとなる」
「今後の傍受班の傍受報告によって大きく戦局が変わるということでしょうか?」
「まさに…言う通りだ。今後、野瀬たちの傍受情報の内容が我々の、いや我が国の国体の存亡に関わって来ると言うことだ。山辺君、この先野瀬や日枝がどんな情報を掴むかに逐一注意しなければならん」
「はっ…しかしながら、大佐殿、実は本日をもって、野瀬たちの傍受班は日枝課長殿の直轄となり、今後は自分が逐一情報に関わることは難しくなるかと…」
「ふむ…早速日枝も先手を打って来たということだな。よし、分かった。私の方で早速軍令部内部に伝手を見付けておこう。もし日枝の方から傍受情報が報告された時には、速やかに君のところに同じ情報が手渡されるように取り計らっておく」
「はっ、恐れ入ります。そうして頂ければ大変助かります」
「兎に角、ここ暫くは野瀬たち傍受班が次にどんな情報を持ち込んでくるのか、暫く泳がせておいて様子を見ることにしてくれ給え」
「はっ」
「その代わり、野瀬の配下の川出、さらに親戚の…」
「藤村ですか?」
「そうだ。周辺の軍属や民間人の行動だけは、冴島にきっちり探っておいて貰いたい」
「分かりました」
「いいか?もし、こちらが行動に出る時には、日枝中佐以下、いや大森中将殿以下全員を一網打尽にして動きを全て封じなければいかん。その為には騒擾そうじょう、機密漏えい、撹乱、反逆、あらゆる容疑を擦り合わせて、一つの大きな政府反逆の経緯を創り上げ、一気に動きを潰してしまわなければなるまい。仮にそれが事実でなくともだ。分かるな?」
「はっ、直ちにその旨冴島中尉に伝えておきます」
山辺中尉は感に打たれたように緊張の面持ちで、決意を奮い立たせていた…


「どうだい、伊東君?まあ、即席だが、こんな感じで準備だけはして貰ったんだけどよ…」
夕刻、海軍省軍務局の一つ階上に特別に設えた新しい傍受用通信室の設備を見せながら尋ねたのは甲一郎だ。
新しい傍受室には最新の受送信機とマグネト録音機はもちろんのこと、作業台、修理道具類、簡便な打ち合わせ用テーブルに、仮眠用の二段ベッドまで用意されている。

通信機材や各機器の接続状況を細かく確認していた伊東技兵が満足そうに笑顔を上げる。
「完璧です、野瀬さん。アンテナの方位調整器が前の通信室より扱いやすくなっています。どうも有難うございます」
「中佐殿と相談してよ、大至急早朝からしつらえて貰ったんだ。まあ、そうは言っても軍内の設備だ。完全に密室とはいかねえが、これで山辺の野郎の監視の目からは解放されるってことだ。今晩から早速作業に入って貰うぜ。潤さんもよろしくな」
「はい、分かりました」
「必要な資料は、今まで通り二課の翻訳室を使ってくれ」

「それで…今後の傍受情報といいますか、どんな方向で報告を作っていけばいいとお考えですか?」
「それだ。俺も少し考えたんだけどよ、中将殿からは今後の敵さんの空爆でどの位の民間被害が広がるかっていうことを軍令部の方に知らせていかなきゃならない。潤さんはよ、確か8月の15日に日本は降伏するって言ってただろう?」
「ええ、その筈です」
「もしかするとよ、軍の動きはそれより早まるかも知れねえんだ。なにせ昨夜の大空襲の被害が報告されるにつれて、実は陛下のご意向が急に戦争終結の方向に動き出したのさ。こちらとしちゃあ、ここで一気に駒を前に進めてえんだ」
「なるほど…広島に原子爆弾が投下されるのは、もう間際の8月に入ってからのことですから、それ以前に戦争が終結してくれれば、相当多くの命が救われることになりますね」
「今回の潤さんと伊東君の傍受報告のお陰で、事は大きく動いたという事だ。事前情報の精度が丁度いい按配だったという事だな。ここから先は俺たちの傍受情報の信頼性を高くしていかなきゃならねえ。ま、その辺は潤さんの持ってる情報に擦り合わせて行きゃあ、難しくはねえんだろうが、問題はどう証拠をでっち上げていくかっていう事だ」
「こ、今回のように、て、て、敵の通信兵が、う、う、上手いこと、じょ、情報に、ち、近い内容の、か、会話を、しし、してくれるとは、か、限りませんよねえ。ま、ま、毎回、ろ、ろ、録音機が、こ、故障するというのも、お、おかしな話ですし…」伊東が不安そうな表情を浮かべる。
「何か上手い方法はねえかい?潤さん」
「そうだなあ…」潤治は暫く考えを巡らせた…

「いや、何とかなるかも知れませんよ。敵の傍受記録は、作っちゃえばいいんです」
「えっ?そ、そ、そんなことが、で、出来るんですかっ?」伊東は思わず驚きの声を上げる。
「一体、どうするんだい?」
「技術的には問題ありません。僕のパソコン、あれにはマイクも付いていますし、録音も録音した音声を自在に加工することも出来るんです。もちろん多少それらしい英文を作るのは僕にも野瀬さんにも出来ますし…ただ…」
「ただ、何だい?」
「会話の発音です。僕や野瀬さんの話す英語はやはりどこか日本人的発音ですから…野瀬さん、誰か1人でいいんですが、誰かネイティブ、いやアメリカ人に近い発音で英語を話せる人物、それも我々に秘密裏に協力して貰える人物を探せると、作業は早いんですが…流石にそんな人物を今から探すのは難しいでしょうか?…」
暫く甲一郎は考えを巡らせていたが、やがて思いついたように口を開いた。

「おい、潤さん…」
「はい、どうですか?どなたか心当たりがあります?」
「おう、いるいる。丁度いいのが直ぐ近くにいるぜ」
「えっ?直ぐ近くって…軍部内ですか?」
「ああ、お前らの直属上官だ」
「直属上官?…って、一体、誰です?」
「小野君だよ。小野少尉。今はお前さんたちの直属上官だろ。なにね、彼奴は東京外事専門学校出身の招集将校でよ、家業は貿易商で、子供時代は親の都合でアメリカで育ってんだよ。前にアメリカの拘束民間人の尋問に立ち会ったことがあるけど、そりゃあ流暢なもんだったぜ」
「で、でも…ぐ、ぐ、軍の将校に、き、協力して貰って…あ、危なくないんでしょうか?」
「小野君はアメリカ育ちで、ああ見えて、よく話してみるとどこか親米的な節が見え隠れする。俺あ、いけると思うぜ。とにかく今は待った無しの土壇場だ。これ以上の適任はいねえと思う。おい、お前えら、次の非番はいつだ?」
「えーと…明日が日曜ですから、14日水曜の昼から16日の夕方までは非番です」
「じゃあ、14日の作業明けに潤さんは伊東君を俺の家に連れてきてくれ。伊東君はもう外出も外泊も届け出りゃあ当日でも許可が出るはずだからな。俺あ、何とか夕方の勤務明けで小野君を連れて帰るからよ。どうだい?その手筈で…それまでに、色々技術的な方法を詰めといてくれねえかい?」
「分かりました。早速今日から取り掛かっておきます」
「う、う、承りました…」
潤治と伊東は、次の展開に向けて、表情を引き締めた。


つづく…



この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?