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私がわたしである理由19

[ 前回の話… ]


第十一章 終焉の始まり(1)


潤治は霞が関の停車場で、正雄たちと別れ海軍省に向かった。
街の様子はいつもと全く違う。通りを行き交う人々はいずれも切羽詰まった不安げな表情で、足早に山手方面へ下町方面へと急いでいる様子だった。
風向きのせいだろうか、下町方面からのきな臭い焦げ臭が街全体を覆っている。

海軍省に近づくと、軍用トラックや軍用車が入れ替わり立ち代わり慌ただしそうに出入りしている。
省内はいつもより人は疎らだが、各階の各エリア毎に警備兵が立哨し、軍部が今まさに変革の過渡にあることを匂わせていた。
潤治はいつものように軍務局の翻訳部に急いだ...


「おう、潤さん、来たか。早くに呼び出して悪かったな。ちょうど良かった、伊東君もさっききたとこだ」翻訳作業室に入った潤治に真っ先に声を掛けたのは甲一郎だ。
軍服ゲートル姿の伊東はその横で笑顔で敬礼する。何故か足元には大きな背囊はいのうが置かれている。
「あれ?伊東さん、どこかに行かれるんですか?」荷物に気が付いた潤治が尋ねる。
「い、いえ…け、研究所の、兵舎を、ひ、引き払ってきましたので…」
「え?何処かに転属されるんですか?」
「まあ、その話はまた後でゆっくりするとして、潤さん、兎に角まずは3人で課長室の方に出向くぜ。昨夜のことで、ちょいと事あ大きく動きそうなんだよ」
「大きく動くって…どういうことんんでしょうか?」
「潤さん、もしかするとの話なんだけどよ、ことの成り行きによっちゃあ、日本は一気に終戦に向かうかも知れねえ。ま、まずは日枝中佐殿のとこに急ぐぜ」
「あ、はい、わかりました…」


課長室では、いつになく日枝中佐は真剣な面持ちで、3人に対峙した。
「今度の事では君たちの事前傍受は大変なお手柄やった。時刻も場所も、寸分違わず事前に知ることができたよって、軍備に関しては被害を最小限に抑えることができた。もっとも民間の被害は思った以上に甚大で、多くの民間人が命を奪われてしまったが」
「で、これから先、我々はどのように動けば良いとお考えなのでしょうか?」潤治が恐る恐る尋ねる。
「それは、中佐殿とも今朝話したんだが、川出くんと伊東くんには今後もっとより精密な情報収拾を進めて貰いたいんだ。その為の設備や環境はこれまで以上に配慮して頂けるという事だ」甲一郎が補足した。
「具体的にはどういう事なんでしょうか?傍受自体は現状のままでも継続できますが…」

「ふむ…ここから先は、ここだけの話として、他言は無用にしてくれるか…」日枝中佐は少し声を落とし、さらに真剣な眼差しで話を続けた。
「昨夜未明の大空襲については、陛下は殊の外御心を痛めておられるそうや。これ以上民間の被害が広がる様なら終戦に向け講和を申し出る様に外務省にもご意向を伝えられたらしい。特に今後の民間被害については、詳細の予測を求めておられるんや。それによって、講和の時期を見定めなならんとお考えらしい。まあ、講和ゆうても、陛下は降伏もお覚悟の上だ。ただ…問題なのは、軍部内の戦争継続論者たちの動きや…」
日枝中佐はさらに表情を曇らせた。

甲一郎が補足する…
「君たちにも前に少し話したけど、問題は二課特務部の山辺中尉なんだ。彼は軍内では戦争継続論者の先鋒と言える。ま、その上にはさらに厄介なのがいるんだが…それはそれとして、これまでは私も潤さんも伊東くんも、形的には山辺中尉の配下で軍務に当たっていただろう。この形だとせっかく掴んだ情報も潰され兼ねねえ。潰されるどころか命だって危ねえ。そこで、中佐殿に一肌脱いで頂いたって話なんだよ」
「で、では…じ、じ、自分は、ど、どこに配属と、なるのでしょうか?」入室以来ずっと直立不動の姿勢を保っていた伊東が口を開く…

「君が、伊東技兵かね?…」
「はっ!」
「今回の傍受作業には君の手柄が大きかったと聴いている。ご苦労やったな。君は本日をもって、海軍技研の席を離れて貰い、この軍務二課直属の特務技術兵となって貰う。軍籍は近衛第一師団、階級は二階級特進で上等技術兵とする。これまでの特務電信技術班ではなく、儂直属の電信傍受班の技兵となるんや。直属の上官は隣の部屋にいる小野少尉だ。後ほど小野少尉の方から身分証、外出許可証、階級章を受け取る様に」
「は、はいっ!う、う、承りましたっ」
「傍受室は別の個室が用意される。兵舎は原則日比谷の兵舎に一室用意しておくけど、まあ、伊東君は今後外出外泊は自由になるんで、川出くんとよく相談して、2人のやり易い環境で傍受作業を進めて欲しいということだ」甲一郎が補足した。

「では、今後の報告の方はどうしたらいいんでしょうか?」
「これまで通り俺にしてくれ。俺も潤さんも今後は原則山辺の配下から外れて、中佐殿直属の通信傍受班となるんだ。俺がいねえ時は小野少尉を通して中佐殿に直接報告してくれりゃあいい」
「はい、分かりました…」
「ここから先は、軍内部では、推進派との攻防は相当厳しいものになるやろう。3人共身の安全には存分に気を付けんといかんぞ。分かっとるやろな。肝に命じておいて欲しい」
「はい…充分に気を付けます…」


日比谷公園から内幸うちさいわい町方面に下った日比谷通りの裏通りに軍部調達の小さな料理屋がある。
その二階の一室で2人の軍人が遅い昼食を終え、密談を交わしていた。
厳つい大柄の軍将校は腕を組み小さな目を閉じて、憲兵隊将校らしい出立の目の前の長身の男からの報告に耳を傾けている。

「…ですんで、野瀬の方のさしたる注目すべき動きはありませんでしたな。ただ…」
「ただ?…」腕を解いて目を開いたのは軍務局二課・特務班の山辺中尉だ。
「川出という野瀬と同居している翻訳官、あれは一体どういう人物なんでしょうか?」
「なんでも、軍令部の大森中将の縁戚という話ですが、元々戦前から野瀬の貿易商売の助手をしていたとか…まあ、身元もしっかりしていましたんで、ここ最近傍受班の翻訳官として入省して来た民間人です。それ以上の詳しいことは自分も知りませんが…何か不審な点があるんでしょうか?」
「うむ…」憲兵隊中尉の冴島は鋭い視線を山辺に投げかける。
「部下からの報告によりますと、非番の日に幾度か大崎の百反にある藤村という商家を訪れています。ここの主の藤村正雄は野瀬とは親戚関係にあるんですが、今回の空襲の1週間前辺りから、盛んに下町方面を訪れては、住民たちに避難を呼びかけているんですな。まあ、野瀬の親族なわけですから、身内に避難を持ちかけているだけなんでしょう。軍の幹部であれば誰でもやっていることです。ですが、もしも今後野瀬の動きを封じるのであれば、藤村の騒擾そうじょう罪、川出、野瀬の軍事機密漏洩という道筋で検挙することは、容易いということだけ申し上げておきましょう」
「なるほど…早速石田大佐殿と相談してみることにしましょう」

「それと…もう一つ自分が川出に注目している点なんですが…」冴島はさらに身体を乗り出して、声を潜めた。
「なんですか?まだ、何か怪しい点がありますか?」
「今回の空襲の傍受情報のことです」
「まさに傍受情報通りの空襲でしたな」
「そうです。自分が気になるのは、あまりにも情報が正確過ぎるということです。時間も場所も爆撃規模もピタリと当たっていました」
「報告では川出の推測の部分もありましたから、偶然なのではないかと…」
「確かに通信士同士の雑談からの推測とありましたが、もしかすると…これはそれこそ推測の域を出ませんが、川出は敵側のスパイではないかと...」
「スパイ…」
「ええ…部下の印象では、川出の細かい立ち振る舞いを見ていると、どうもこの日本で教育を受けた人間とは思えない、というんですが、心当たりはありませんか?」
「ふむ…確かに…仕事は手際よく出来る奴だが、報告書の書き方が今ひとつ分かっていなかったり、当たり前のことに不慣れだったりすることが多々あったかも知れん。そう言われれば物腰もどこか浮世離れしている気もしないでもないな」山辺は甲一郎が潤治を海軍省に連れて来てからの2週間のことをつぶさに思い出そうとした…

「もし、川出が敵側の人間で、早い時期の日本の降伏を目論んでいるとしたら、正確な情報も頷ける。ま、これはあくまで推測ですけどね。そういう可能性もあるということです」
「なるほど…その辺も含めて大佐殿に話してみましょう」
「ええ、自分の印象では、いずれにしろ彼等は早々に排除された方が得策かと思いますな」
「ふむ……」


下町方面を目の前にして、正雄たち一行は目を見張った。
火災は既にほぼ収まっていたものの、一面がくすぶり続け、僅かな鉄筋の建物を除いて、見渡す限り焼け野原だった。
うっすらとした煤と煙が霞の様に街全体を覆い尽くし、有機物を含んだ独特の悪臭が立ち込めている。
軍隊や自警団、多くの人々が消火を進めながら瓦礫の撤去に躍起になっている。

どの通りの路肩にも黒焦げに焼けただれ、かつて人間であっただろう生焼けの肉塊が何百何千と積み上げられてゆく。
男…女…老人…子供…幼児…乳児…表情が見て取れる者もあれば、どこが顔なのかもわからず、何かを掴もうとするかのように折れ曲がった手足が伸びていることで、ようやくそれがかつて人であったことが分かる者もいる。

生き残った人々は着の身着のままで呆然と誰かを探すように累々と横たわる遺体の山を見つめながら、周囲の作業員に促され、救護所に向かいのろのろと足を引きずるように一方向を目指してゆっくりと歩いている。
不思議なのは、これだけの遺体が並べられ、これだけ多くの生き残った人々が徘徊しているにも関わらず、どこからも悲嘆の声や悲鳴が聞こえてこないことだ。
悲劇はただただ従順に時を刻み続けていた…

「酷え…ここまで酷えとは思わなかったぜ…これじゃあ無事を確かめるどこの騒ぎじゃねえぞ…」
正雄がマスク代わりに口を覆った手拭い越しに呟く…
「焼け残った家屋はありませんねえ。下町は全滅ですね…」
誠司もあまりの惨状に驚きを隠せない。
「全く…焼夷弾ってえのは、むごいもんだ。民間人を焼き殺す為の爆弾なんだからよ。見てみろ、そこいら中に油を撒き散らしやがって。これじゃあ逃げるに逃げられねえや」
「お父さん…浅草のおばさんや新にいちゃんや恵美子ちゃんは?みんな死んじゃったの?そんなの…そんなの…嫌だ…嫌だよ…」それまで、言葉を失っていた積子はそう言うと、無言のまま大粒の涙を流し始めた。
「いや、そうとは限らねえ。ただ訪ねる家は焼け残ってねえということだ。あとは救護所を回ってみるしかねえな…おい、功夫!」
「はいっ」
「お前え、大丈夫か?」
「はいっ、大丈夫です。畜生…なんで彼奴ら、兵隊でも何でもない女子供まで殺すんですか?そんなことしていんですか?大将」
「いいも悪いも、これが戦争なんだ。敵さんも必死なんだろうぜ。兎に角先ずは日本橋の方に回ってみるとするか」


正雄、誠司、功夫、積子の4人は銀座から隅田川に沿って、日本橋を目指した。
「ひぃっ!」
突然、積子が奇妙な小さな叫び声を上げて立ち止まり、川の水面を指差す。身体は小刻みに震えていた。
「何だ?積子、どうした?」
見ると、川面には一千体以上もあろうかという大量の死体が流れていた。そのいずれも焼死体ではなく明らかに溺死体に見えるが、実は彼等は溺死ではない。
火に巻かれ、逃げ場を失って川に飛び込んだ人達…しかし、巻き起こる沿岸の大規模火災は、川面から酸素を奪い取ってしまっていたのだ。川面の人々の死因は窒息死だった。
両岸からは多くの作業員が次から次に流れて来る大量の遺体の引き上げに躍起になっている…

「おい、積子っ!大丈夫か?そんなもん見るんじゃねえ!」
正雄が声を掛けるが、積子の体の震えは止まらない…
「ふ…ふっ…う、う~…」
積子は目を見開いたまま声を押し殺すように涙を流し始めた。
「積子っ!しっかりしろっ!おいっ」正雄はしゃがみ込んで積子の両肩をしっかり掴むが、積子の様子は変わらない。
「駄目だ、やっぱり連れて来たのがまずかったか」
「あの、取り敢えず僕、積子さんを連れて帰りましょうか?」
様子を窺っていた誠司が申し出た。
「そうかい?そうして貰えれば助かるけど、誠司くんの方はいいのかい?」
「ええ。この感じだと、焼け残っている家はどうもどこにもなさそうですから…動ける人がいれば山手方面に避難して来るでしょうし…」
「そうか、じゃあお願いしていいかい?宜しく頼んだぜ。俺たちは本所から浅草覗いたら、切り上げて帰るからよ、うちの連中にはそう伝えておいてくれ」
「分かりました。じゃあ積子さん、一緒に戻りましょう」誠司はそう言うと積子の手をとった。
積子は一瞬身体を強張らせたが、じっと視線を誠司に移すと、その手にしがみつくように無言で身を委ね、正雄たちと別れ、誠司と一緒に帰路に着いた。


つづく…



この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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