【読書メモ】『ものがわかるということ』養老孟司②第二章「自分が分かる」のウソ
写真では外していますが、本の帯にあった、絵本作家ヨシタケシンスケさんのかわいいイラストとオススメの言葉に吸い寄せられて購入した『ものがわかるということ』。
発売3ヶ月ですでに8万部突破とあるので、色んな方が書評は書いていると思いますが、こちらでは相変わらず私的な感想②を残したいと思います。
第二章 「自分が分かる」のウソ
この章の前半で、養老さんは西洋と日本の「自己」の捉え方の違いについて話をしています。「変わらない私」「自己同一性」が保たれている西洋的な視点では、必ず主語に「I」が来る。でも日本語ではいちいち「自分は自分である」「俺は俺である」ということを明確に言葉にしない。
明治期に近代個人主義が入り込んできて、「個人」が不変であるかのような認識と、「個の確立」や「個性を伸ばせ」という思想が広がった。
「自分探し」「自分に合った仕事」を探している人は、どこかで自分自身は変わらない。だから自分に適した仕事をさがす、という西洋的な「私」を取り入れている、と養老さんは話します。
私もずっと思っていました。ずっと「自分探し」をしている。自分には生まれてきた理由や役割があるはずだ。それは私の外にある。それを探して見つけ出せば、充実した日々が送れる。
養老さんのように「自分自身は全くかわらない」とは考えてはないけれど、生きる理由や働く理由はすべて自分の外側にあると、そう思っていました。
でも、この章の最後で衝撃を受けます。
養老さんは、仏教の修行、比叡山の「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」という、お坊さんが比叡山の山の中をただひたすら千日走り回り、「大阿闍梨(だいあじゃり)」という称号をもらう修行について説明しています。走り回ったところで称号は貰えるが、お金にはならない、そういう修行だそうです。
お坊さんは芸術家のように作品を創るのでもなく、大工のように家を建てるのでもない。それなら何をするのかと言えば、「自分を創る」のだ、と。
そして、こう言います。
人生、「それだけのこと」に満ちている。
そして、自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。
とても、心揺さぶられる言葉でした。そっかぁ。そうなんだ、と。
「それだけのこと」というのは何も特別なことじゃないんですよね。
でも「それだけのこと」で自分が変わり、自分が創られていく。
目から鱗な文章に、視界が開ける気持ちです。
そういえば、自分とは「創る」ものであるということを、岡本太郎も言っていたような。それを読んだ若いころには、なんとなく理解していたつもりだったけど、全然分かってなかったかもしれない。
次は第三章についてメモります。読んでくださってありがとうございます。
今日はこの辺で。