有機的な結びつき、積み重ねの重要性

料理の話

最近、家の味を受け継ぐために母から料理を教わっている。
とはいえまだ味噌汁の作り方を教わっただけだが。

大学最後の春休み、時間を持て余している私は何かしら新しいことを始めようと思っていた(noteもその一つだ)。
自身の生活力が皆無である私は、炊事洗濯を会得する良い機会だと考えた。
最低条件の料理から手をつけ始め、最初の献立に味噌汁を選択。
米を炊き、味噌汁と肉か野菜を用意することができれば、あとはサラダを合わせて一食が完成する。これさえ出来れば健康の維持はできるだろう。
それに母のお手製味噌汁は永遠に飲んでいられるほど美味しいので、何がなんでも私が引き継がなければならない。これは絶対の使命である。

そんなわけで某日午後1時、母に出汁の取り方から味噌汁完成までの一連の流れを指南してもらった。
1回目はほとんど母が味噌汁を作り、その様子を眺めながらメモをする形式(野菜を切るくらいはやった)。
2回目に初めて適量の水や昆布・鰹節・煮干し、味噌などを自身で用意し、自身の力で完成まで持っていった。
3回目は2回目に作って余った出汁を用いて味噌汁だけ料理した。

1回目の時、母が言った。
「いつも料理は流れでやっているし同時並行で別の料理も作ってたりするから、味噌汁だけにスポット当てて調理過程を説明しようとすると難しいのよ」
この感覚には覚えがあった。私は高校でドラムを叩いていたのだが、後輩に指導をする時に特定のフレーズだけを取り出してゆっくり教えようとすると手こずるのだ。他にも曲の歌い出しから歌おうとすると歌詞が出てこないのに、イントロから歌えばスルッと出てくるなんて経験もある。
料理も同じなんだなーと軽い気持ちで考えていた。

2回目の時、母が言った。
「米と味噌汁と肉と魚と野菜だけ覚えればいいなんて考えは、お母さんに言わせればまだまだ」
趣味ではなく必要に駆られて覚えるのだから、まずは初歩的で基礎的な献立から覚えるのは合理的では?と思ったが、「こういうのは別個に意図的に覚えるものではなく、子どもの頃から親の料理姿をじっくり眺めることで自然と身についていくもの」らしい。
寿司屋の弟子が、師匠の動きを見て覚えるようなものであると理解した。

概念の話

3回目の時、その日は母と別の話題で会話をしていた。
その内容は簡単にまとめれば「何事も経験である」「失敗してもいい」というものであった。
会話をしている最中に母が言った。
「単に"何事も経験"という文言だけを聞いても誤解されてしまうものだ」
私は応える。
「俺たちはこれまでいろんな話をしてきたから分かるけど、そこの過程をすっ飛ばして聞いても薄っぺらくなっちゃうんだろうね」

私と母は、近年の母息子の中でもわりかしよく話している方だと思う。
2020年になってからと言うもの、以前にも増して母と話すようになったのだが、その話題は多岐にわたる。
中でも人生や子育てについて話すことは多い。
一番古い記憶でも、幼稚園年中の頃にはすでに道徳の話をしていた。

ただ当然のごとく、それらの内容全てを詳細に語ることはできない。
ましてや見知らぬ他者にその内容を理解してもらうことなど不可能だと思う。
それは話した内容が記憶に残っていないからという理由だけではない。
内容の一つ一つが有機的に結びつき、一つの膨大な概念になってしまっているのだ。
「何事も経験」ということの根拠にはAについて語る必要があり、Aを理解してもらうにはBという概念について説明しなければならず……ということが無限に続く構造になっているのである。
これは先述した「料理の過程の一部分を切り出して実行するのが難しい」というものと似通っている。体の動きだけでなく言葉の説明・理解に関しても全体の流れというものがあるのかもしれない。

反対に複雑で膨大な概念の形成を共に行なってきた母と私の間では、どの部分を取り出してもお互いに理解し合えるのである。
AのためのB、BのためのC、CのためのD……といった前提を全て共有しているからである。

言葉の話

言葉の重みの違いはこの過程を経た人間が発しているか、言葉を聞いた人間がこれらの前提を保有しているか、などが関わっているように感じられる。テレビや大学で耳にする"多様性"など、巷で流行っている言葉の薄さはここに起因すると思われる。話者がどれほどの前提や経験や証拠を込めて言葉を発しているのかが、エネルギーとして聞き手に伝わるのだろう。

反対に魂を揺さぶるような演説に対して文面通りの意味しか汲み取らずに揚げ足をとるような人が多いのは、言葉の裏にある膨大な前提を汲み取れないからだろうか。
わざと揚げ足をとる人はいるだろうが、それに乗っかって批判をする人が多いことに驚くばかりである。
話者が放った言葉の意図を汲み取るには、前後の発言内容を踏まえて理解する必要がある。あるいは聞き手の価値観や思考が話者と類似している必要があるだろう。
後者に該当せずとも前者の努力をすることで意思疎通を図ることが可能になるのだが、その努力を怠る人間が年々増えているように感じられる。
努力をしないのか、能力がないのか。
英語やプログラミング等に力を入れる前にやるべき養育があると思うのだ。

子どもの時に標語のように聞かされた綺麗事。
今の子どもたちにとってはそれこそ"多様性"が該当したりするだろう。
「現実はそうはいかない」と言って一蹴する子どもも多い。私もそのうちの一人であった。
その綺麗事が案外真実かもしれないと思うようになったのはここ最近のことである(例えば「人に優しくすると自分に返ってくる」とか「誠実に生きることが大事」とか「みんな違ってみんないい」とか)。
しかし素直に受け止めるようになるために必要なことは、綺麗事をなんども聞かせたり唱えさせることではなかった(小学校はこればかりするが)。
必要なのは生きることである。生きていろんなことを読み、考え、行動に移し、挑戦と失敗と反省とを繰り返すからこそわかることである。

人生の話

その人にとって核となる価値観・その人にとっての真実・その人にとっての世界の理。
人の人格を形成する過程に膨大な時間がかかることは想像に難くないが、そのことを自覚している人はどれほどいるだろうか。

この文章に書いた料理と寿司とドラムとイントロと概念と情報の話はそれぞれ別個の経験・伝聞である。経験した時期も場所も全く異なる。
「有機的な結びつき」や「積み重ねの重要性」を誰かから教わる際に一度に経験したわけではない。
それこそ一つ一つの経験を積み重ねて、少しずつ共通点を見つけて時間をかけて有機的に結びつけたのである。
米と味噌汁と主菜と副菜をそれぞれ個別に習得しても、同時に作れるようにならなければ1日かかってしまう。
同時に作ることは個別のレシピをマスターすることよりもはるかに難しい。同時に作れるようになるためには一つ一つを別個に覚えるのではなく、師匠(母)の動きをじっくり見て学ぶ必要があるのだと、そう伝えたかったのではないだろうか。

経験を結びつけることでしか得られない"何か"を得ることこそ、人生の醍醐味ではないだろうか。そしてその"何か"をたくさん手にした人こそが「立派な人」であり「人格者」になる。

これはまさしく人生を通した研磨であり、一朝一夕で完成する話ではない。
死んだ瞬間が完成する瞬間である。
死ぬ瞬間までのあらゆる出来事が、その人を磨き、新たな気づきを与える。

だから、「何事も経験」なのである。


クニヒデ





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