見出し画像

憧れが、目標にかわるとき

ステージ上から、リードをとる姿がまぶしい。

45歳の彼女は目標に向かって、悩み、戦い、そして到達した。60分のハードなレッスンを終え、仲間からお祝いの花束を受け取る。「やーめーてよう、もう」と必死に笑顔を作るものの、その顔がみるみるうちにぐしゃぐしゃになった。

今日は、彼女のフィットネスインストラクターとしてのデビュー日。

長年主婦業ママ業に専念していた彼女の、記念すべき1ページ。


★★★


「体力のある人って、やさしい気がするのね。大らかっていうか」

女優・小雪さんのトーク番組でのコメント。私はテレビの前でぶんぶんと頷いた。じゃあスポーツ選手は全員優しいのか? 違う。トークの脈絡からして小雪さんが言いたいのは、そんな単純なことではないだろう。

些末な面倒ごとを笑い飛ばせる広い心
他人を、まあいっかと許容できる大きな器
突発的なことに対応できる柔軟性

それは、じゅうぶんな体力があってこそ。肉体的な体力はもちろん、心の体力も必要だ。

レッスン中、生徒の視線を一心に集めるフィットネスインストラクターは、とても器が大きく見える。明るくて誰に対してもフラットで、心身共に体力が備わっているかのようだ。

もしかしたら、その姿は営業用なのかもしれない。でも、それを頭のどこかでわかっていても、ステージで輝くインストラクターに生徒は憧れる。美しい身体になりたいと、彼らのように軽やかに動ける身体を手に入れたいと、切望する。


★★★


「醜態、さらすかもしれんよ。45にもなって、おばさんがステージで何やってんだって」

インストラクターの試験を1か月後に控えたお酒の席で、彼女は不安を吐露した。元々細かった身体はエントリーに向けてさらに絞って鍛えられ、自身の課題であった背中の柔軟性も克服した。やれることは十分すぎるほどやってきた。あとは試験本番で緊張しないよう、ルーティンの動きを自分に叩きこむだけだ。

フィットネスインストラクターは体力勝負。単なる数値による身体能力だけではなく、エネルギッシュなレッスンを生徒に期待させる「元気そうな外見」も不可欠だ。

35歳を過ぎたあたりから、女性は心身共に下り坂へ向かう。各々の身体に対する「意識の高さ」が顕著に表れ、更に進んだ40代は、健康体で突き進む人と不調を繰り返す人に枝分かれする。そして悲しいかな、差は「外見」にも現れる。

やる気があれば職業に年齢なんて関係ない、そう言いたいがそれは理想だ。フィットネスインストラクターには、はつらつとした外見が一般的に臨まれる。

それでも彼女は、45歳の今、インストラクターを目指した。

10年近く続けていたフィットネスで、彼女がインストラクターという仕事に憧れていたのは明らかだった。ダンス慣れしたスタイリッシュな動きと、手足の長い抜群のプロポーション。彼女の後ろでレッスンを受けると、可動域の大きい肩甲骨にほれぼれした。

早くエントリーしたらいいのに、と周囲の誰もが思っていた。


★★★


「できない理由ばかりを考えるな」

著名人が、インフルエンサーが、成功者がそう叫ぶ。岐路に迷うひとに、その言葉でお尻を叩く。まず行動に出ろ、動けば何かが変わるからと。

そんな強い圧を見聞きするたび、ちょっと待ってよと反論したくなる。「できない理由」を考えて何が悪い。今、いちばん大切なものは?と自分に問うた時、出てくる答えがきっと「できない理由」だ。そして多くの場合、できない理由は自動的に「ゆずれない理由」にスライドできる。


彼女のスイッチが入ったのは、その「ゆずれない理由」がなくなった時だ。


年の離れた子どもが三人いる生活で、夫は専門職の激務。元々は彼女も体育会系の専門職だったが妊娠を期に退職した。産後、復帰を考えなかったわけではない。

イクメンなぞどこ吹く風の世代と地方である。家事と子どもたちのことは、彼女の役割になるのは必然だった。そして、そんなものかなと専業主婦を受け入れたのも彼女自身だった。でも、彼女を愚鈍だと責めたくない。現代の風潮からかけ離れた思想が、幅をきかせている土地がまだまだあるのだ。

育児はまだまだ続く。それでも小さいねえ可愛いねえと思っていた子どもたちは、いつのまにやら中学生と小学生になっていた。

彼女にスイッチが入った時期を、私ははっきりと覚えている。

普段のジムのほかにランニングを始めた。パスタとピザがメインに並ぶレストランで、肉と野菜のメニューを選ぶようになった。背が高いせいでいつも少し丸くなる背中が伸びて、日に日に立ち姿が美しくなった。


★★★


物事には「タイミング」がある。

私が今ライティングの仕事をしているのだって、よくわからない運とタイミングだ。大昔はグラフィックデザイナーとしてイラストやフォント、写真とにらめっこしレイアウトを夜な夜な考えていたけれど、そこから離れて気が付けば15年近く経っていた。

知人のディレクター(リモートワークのライターを束ねて、事務所を経営している人だった)の「書きたいひと、いませんか」のアナウンスにエントリして、本格的に「お金になる文章の書き方」を叩き込んでもらった。私の小手先の文章が、ディレクターの手にかかるとみるみるうちに血が通った。穏やかな対応とは裏腹に、すさまじい語彙とテクニックをもっているその人に、私はたいそう憧れた。

そこからもう、10年以上文章を書いている。

書くことが好きで、文章にしがみついてきた結果が今だ。記名記事は皆無だけど、人知れず私が綴った文字は何百万字?何億万字?もうよくわからないくらいだ。

「忙しくなってきた」なんてたまにえらそうに呟けるくらいの仕事があり、おまけに欲まで出てきて、今まで避けてきた場所にこれから手を伸ばそうとしている。それは私に「ゆずれない理由」がなくなりつつあるからだ。

インストラクターになった彼女も、長い間大好きな「フィットネス」を続けてきた。育児の合間を見てレッスンに参加し、どんなに忙しくても身体を動かすことをやめなかった。目標スイッチが入った時に、思ったよりも短期間で欲しい資格と仕事をつかみ取れたのは、その何年もの根気強い努力があったからだ。


遠く離れた誰かの、猛々しい「できない理由ばかりを考えるな」なんて聞かなくていい。その人はあなたに向き合っているわけではない。私たちは大切な「ゆずれない理由」に向き合いながら、やりたいことにしがみついていくしかない。


そして、私たちは不自由を抱えながら待つのだ。


憧れが、目標にかわるときを。









この記事が参加している募集

#とは

57,754件

#熟成下書き

10,576件

最後まで読んでいただきありがとうございます。面白いと感じたら、スキのハートは会員じゃなくてもポチっとできますのでぜひ。励みになります♪