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木田元『反哲学入門』第二章「古代ギリシアで起こったこと」

はじめに 一章から二章へ

 一章では哲学の概略を読みました。二章では西洋でどのようにして哲学が起こったかを、ソクラテス・プラトン・アリストテレスに沿って読みます。

ソクラテスの当時

 ソクラテスは紀元前469年にアテナイに生まれます。ちょうどアテナイはデロス同盟の盟主をしていましたが、第二次ペルシア戦争終結後もその地位を維持し、他のポリスへの内政干渉を強めていました。それを嫌ったポリスたちはスパルタを筆頭に結託し、ギリシャ世界内で三十年に渡るペロポネソス戦争が勃発しました。
 当時スパルタやアテナイ以外のポリスの多くは少数寡頭政治を採用していましたが、アテナイでは直接民主政治を行っていました。ただし、すでに衆愚政治が蔓延して扇動者によって政治は常に左右されてきました。扇動者の中にはソクラテスの昔の弟子もいました。
 その代表格がアルキビアデースで、彼はスパルタとの休戦条約を破ってスパルタへ侵攻、状況が悪くなるとスパルタへ寝返り、さらにペルシアへと逃亡したりまたアテナイへ戻ったり、最終的には暗殺されてしまいます。その間に各国の情報が流出し、どの勢力も大きな損害を受けました。
 紀元前404年、ペロポネソス戦争はアテナイの敗北で終結しましたが、その後も問題が続きました。

敗戦後のアテナイには、スパルタ占領軍の管理下で三十人の代表が選ばれ「三十人政権(トリアコンタ)」と呼ばれる新憲法制定委員会のような政権が作られました。政権の中軸は、穏健な民主派でしたが、そこには少数寡頭政体を支持したためにペロポンネーソス戦争期間中スパルタや中立国に亡命していた人びともふくまれていました。そしてその大部分がソクラテスの昔の弟子なんです。

 こうした弟子たちは次第に民主派の戦争責任の追及を始めます。それが過激化するに従い民主派は隣国へ亡命し、その動きに抵抗します。この内乱によってアテナイはペロポネソス戦争以上の死者を出したと言います。内乱はスパルタ王の調停によって収束しますが、アテナイ内には大きな禍根が残りました。

ソクラテスの裁判

 さて、このような情勢の中でソクラテスは「いつも時の政権を批判し、志のある若者たちを周囲に集めて」、「ペロポンネーソス戦争の敗戦から三十人政権の乱の終結まで、反体制の黒幕とみなされ」ていたため、「若者たちを教育した責任」を問われることとなります。
 紀元前399年、ソクラテスは告発を受けますが、そこでのソクラテスの発言を筆者は以下のようにまとめています。

自分はたしかに民主政体批判はしたが、だからといって少数寡頭政体を支持しているわけではない。その証拠に、三十人政権の時代には彼らを批判していた。もしあのままの状況が続いていれば自分は彼らの手で殺されていたはずである。自分は民主政体も少数寡頭政体もどちらも支持していない、眼前の現実政治を批判しているだけなのだ。

 詳しくは『ソクラテスの弁明』を読まなければいけないと思いますが、政治家の天敵のような人物だったのでしょうか。

ソクラテスは何者か

彼の主張はどこかふしぎで、民主政体も批判するし、少数寡頭政体も批判するという具合に、徹底的に否定的です。(……)かれは、弟子たちにもポジティブなことは一切教えません。(……)生き方そのものもアイロニカルなのです。
ソクラテスは自分自身をソフィスト(知識人・学者)ではなく、ホ・フィロソフォス(知を愛する者)だと言っています(……)彼は、なんらかの既成の知を拠り所にするのではなく、いかなる拠り所もなくいわば無を立場にして、いっさいの既成の知を批判し否定しようとしていたことになります。

 ソクラテスの同時代にも「ソクラテス以前の思想家たち」の末裔はいました。ソクラテスはその思想、ギリシャ世界の物の考え方の大前提を徹底的に否定していたのです。キルケゴールはソクラテスの否定を捉えて「目の前に出てくるものを片っ端から否定する無限否定」と言いました。
 また、プラトン『饗宴』の中には面白い記述があるようです。

ソクラテスには奇妙な発作がありました。なにかをやりかけているとき、突然その動作をストップし、動かなくなってしまうのです。(……)その発作が起こったあと、「いったいなにをしていたんだ?」と尋ねられると、ソクラテスは「鬼神(ダイモーン)の声を聴いていたのだ」と答えるのが常でした。
そして、「鬼神はなにをかたりかけてくるんだ?」と訊かれると(……)こうするな、ああするなと否定的な命令を与えるのだとソクラテスは答えていました。

 この「鬼神の声」についてはニーチェも何か指摘しているようですが、詳しくは改めてそちらを勉強する必要がありそうです。
 結局、なぜソクラテスは否定するのか、その答えは見出されていません。ただ「結果的には、プラトンやアリストテレスが超自然的な原理を設定するための、思考の舞台の大掃除をし、その準備をした」ことになるようです。

プラトンの飛躍

 プラトンは紀元前427年アテナイの名門に生まれます。28歳で師ソクラテスの処刑を受け、数年後にソクラテスの言行録として十数編の初期対話篇を書きます。この時点ではプラトンの思想と呼べるものはなさそうです。
 その後、世界漫遊の旅に出ます。正確には分かっていませんが、エジプトやアフリカ北海岸、イタリア・タラントのピュタゴラス教団やシシリー島のシュラクサイなどに滞在したのではないか、と本文にあります。この旅の中でユダヤ人の一神教や世界創造説に接触し、「イデア」の発想や「つくる」論理に至ったのではないか、と筆者は考えているようです。
 筆者は、プラトンはソクラテスを処刑に追い込んだアテナイの政治に絶望し、その問題点を追及した結果として「なる」論理を否定し、ポリスは一つの理想の理念を目指して「つくられる」べきものであると構想しようとした、と指摘しています。そして、「そうした政治哲学を説得的に主張するには、ポリスに限らずすべてのものが「つくられたもの」「つくられるべきもの」だとする一般的存在論によって基礎づけられる必要」がありました。その「一般的存在論」として「イデア論」が構想されたようです。
 では、プラトンの考える「イデア論」とはどのような考えでしょうか。

プラトンはこの言葉で、「魂の眼」でしか見ることができない、けっして変化することのない物事の真の姿を指します。
目の前にあるものはイデアの模像にすぎず、人間が感じ取れる世界は、真に存在する世界であるイデア界の似姿に過ぎない。(プラトンは)なにが真に存在する本物かという価値判断の基準をまったく逆転させた。

 いきなり「魂の眼」なんて言われても分かりませんが、プラトンにとって現実世界は「完全な世界(=イデア界)」の劣化版コピーのようです。この世界に存在する「不完全な」コピーを見ることを通して、その背後にある完全であるもの「イデア」を見る、ということでしょうか。
 正確に理解はできませんが、少なくともこのとき、それまでギリシャ世界で想定されていた「自然」の外枠に、その上位互換としての超自然的原理「イデア」が誕生したのです。

プラトンにおける「自然(フュシス)」と「制作(ポイエーシス)」

 ここで、「自然」と「制作」という面からプラトンの思想を見ます。
 ソクラテス以前の思想家たちの時代、人の手が加えられる「制作」という行為も生成原理である「自然」の一種と見做されていました。例えば夏目漱石『夢十夜』第六夜で若い男が「私」に対して、運慶が仁王を彫るのではなく、仁王が木に埋まっているのを掘り起こしているだけだ、と語るあたりがそれに似ています。どちらかというと、「制作」は「うむ」論理に近いのかもしれません。
 対して、プラトンは「制作」を「自然」から分離独立させ、さらに「制作」を主軸として「自然」を規定しようとします。

そうすると、「自然」は「超自然的原理」を形どっておこなわれる「制作」のための単なる「材料/質料(ヒュレー)」(これがラテン語では「マーテリア」と訳される)としかみなされなくなる。つまり、「自然」はもはや生きておのずから生成するものではなく、「制作」のための死せる質料(マーテリア)、つまり無機的な物質(マテーリアル)(質料でしかない物)になってしまうのです。

 現実世界の「自然」は「なる」論理の産物ですが、現状「なる」だけではイデア界に到達はできていません。すると、イデア界に到達するためには「自然」をさらに「制作」によって加工しなければならない。つまり「制作」こそがイデア界に到達する唯一の手段であり、「自然」はそのための材料に過ぎない、ということでしょうか。とりあえずこの時点で「なる」論理が「つくる」論理に乗り越えられたようです。

「形而上学」という訳語の由来

 ここでいったん「形而上学」という言葉について、アリストテレスが関わっているその由来を追っていきます。私はそもそも形而上学がどのような学問なのか(そもそも学問なのか?)全くわからないのですが、少しの間だけわかったような顔をしてこの小節を終えさせたいと思います。

「形而上学」とは、英語で言うならmetaphysics(メタフィジックス)、遡ってラテン語でならmetaphysica(メタフュシカ)、さらに遡ってギリシャ語で言うならta meta ta physika(タ・メタ・タ・フュシカ)の訳語として造語されたものです。

 これらの単語に明治初期、『易経』の一節から「形而上」とってあてはめたのが日本で言う「形而上学」となります。では、そもそも西洋ではどのように発生した言葉なのでしょうか。
 アリストテレスはリュケイオンという学園を開きましたが、そこに「第一哲学(プローテー・フィロソフィア)」という名の講義録を残しました。これは「プラトンの超自然的思考様式を批判的に検討しながら、結局はそれを継承していく思考作業を核心」とした内容です。紀元前一世紀ごろ、これがほかの講義録と共に編纂される際に「自然学(タ・フュシカ)」の講義録の後ろに配列され、「自然学の後の書(タ・メタ・フュシカ・ビブリア)」という呼び名にされました。このギリシャ語がラテン語に移植されると「metaphysica(メタフュシカ)」となります。
 このように、元々は講義録の配列を表す言葉だったようです。
 それが、キリスト教の登場にとって意味が大きく変わってきます。キリスト教は380年テオドシウス帝によってローマ帝国の国境に採用されます。その際ローマ市民への布教のために、当時ローマ市民がギリシャ的教養を身につけていたことに着目され、ギリシャ哲学がキリスト教の教義体系整備のための下敷きにされます。彼らは「超自然的原理の部分に「神」を代入して」教義体系を作りました。

教義の中で自然的な事象に関わるものを整理するにはアリストテレスの「自然学(タ・フュシカ)」を使い、神の恩寵や奇蹟のような超自然的な事象に関わるものを整備するのには「第一哲学」、つまり「自然学の後の書(タ・メタ・フュシカ)」を使いました。
使っていく中で、metaphysicaの意味が変わっていきます。(……)「自然を超えた事柄に関する学」という意味、つまり「超自然学」という意味に読み替えられました。

 ギリシャ語の前置詞meta(メタ)に「……を超えて」という意味があることから、そのように変化しました。この「超自然学」としての意味が今後定着し、近代ヨーロッパ諸語にも受け継がれた、と筆者は言います。
 つまり、形而上学はアリストテレスによる、プラトン思想の講義録ということになりますね。

アリストテレスによる巻き戻し

 さて、「形而上学」誕生のもとになったアリストテレスですが、紀元前384年にギリシャ北方、マケドニアの都市スタゲイラの医師の家に生まれました。17歳でアテナイへ渡り、プラトンの死までの20年近くをアカデメイアで学びました。その後、幼少のアレクサンダーの家庭教師を務めますが、FGOのアレクサンダーはこの頃でしょうか。前述のリュケイオンは家庭教師を解任されたのちに開いています。
 アリストテレスは師プラトンの超自然的原理の考えと、ギリシャ古来の自然的考えの融合、ソクラテス以前の思想への巻き戻しを目指しました。しかし、それは結局、超自然的思考様式を批判的に修正しながら継承するに留まります。

アリストテレスにおける「自然」と「制作」

 アリストテレスは「自然によって存在するもの」「技術によって存在するもの」を対比しながら、それぞれの運動の原因、つまり「「自然」と「技術」がその運動体に対してもつ関係を見さだめよう」とします。
 運動体が「自然によって存在するもの」である場合は、その運動体の内部に運動の原因である「自然」が内包されており、その運動(=変化)は運動体の内部から起こります。これは「なる」理論に分類されます。
運 動体が「技術によって存在するもの」である場合は、その運動体の外部に運動の原因である「技術」があり、その運動は運動体の外部からの働きかけで起こります。筆者はこれを「なるもの」と分類しますが、それはあまりピンときません。ただ、プラトンの「制作」を「自然」から分離独立させる考えとは異なることはわかります。

プラトンからアリストテレスへ 「形相(エイドス)」と「質料(ヒュレー)」

 今回の最後に、プラトンとアリストテレスの違いを「形相」と「質料」という点から説明します。
 まず、プラトンのイデア論からです。筆者は机を題材にして説明しています。

まず、「机」という名前で呼ばれるものは、材料が木だったり大理石だったり、いまならスティールだったりさまざまですが、とにかくみな机の形(エイドス)をしています。それは、机を作る職人が、机というもののあるべき姿、つまり机のイデアを魂の眼で見ながら、その形を石や木などの材料(ヒュレー)の上に写したからです。

 このうち、日本では形(エイドス)を「形相」、材料(ヒュレー)を「質料」と翻訳しました。このうち、イデアは事物の理想的な形を、形相はもっと一般的な形を指します。

プラトンの用いた二つの原理とは、机のイデアから魂の眼によって見てとられる机の「形相」と、その「形相」によって裁断され構造化される木や石などの「質料」のことであり、この二つの原理だけ世界のすべての存在者が整序されると言うのです。

 プラトンは、「質料」が物事の「あるかないか(ト・ホティ・エスティン)」を示し、「形相」が物事の「なんであるか(ト・ティ・エスティン)」という本質存在を左右するとしました。よって、「質料」となる「自然」はイデアを由来とする「形相」の下部に置かれ、超自然的原理であるイデアの「形相」を構築するための無機的な死物として扱われるのです。イデアとは不変の完璧無比な存在ですから、そこには有機的変化は生じません。

 この考えをアリストテレスがずらしてきます。
 筆者は、例えば木材にしても机にするか柱にするかの向き不向きがある、として以下のように説明します。

アリストテレスは(……)質料とはなんらかの形相を可能性としてふくんでいるもの、「可能態(デュナーミス)」の状態にあるものだと考えます。そして彼は、その可能性が現実化された状態を「現実態(エネルゲイア)」と呼んでいます。つまりアリストテレスはプラトンの「形相―質料」という図式を「可能態―現実態」という図式に組み替えたのです。

 木材と机の関係は、「形相―質料」の場合完全に偶発的です。重要なのは「形相」であって、「机」は「質料」によっては全く左右されないからです。しかし、「可能態―現実態」の場合はそこに必然的関係が生じます。例えば丸太に「木材」という可能性が含まれていたから、丸太は木材に加工されます。その木材も「机」という可能性が含まれていたから机に加工されるのです。
 このことから、「可能態―現実態」の関係はどこまでも相対化され、筆者は以下のように指摘します。

すべての存在者はそのうちに潜在している可能性を次々に現実化していくいわば目的論的運動のうちにあるということです。

 このようにアリストテレスは有機的変化のないイデア論をとりあえず否定して見せます。しかし、プラトンがイデアを目指したように、アリストテレスも現実態としての最終目的を定めます。

彼自身の考えた目的論的運動が目指している最終目標を彼は「純粋形相」とか「神(テロス)」―といっても、けっして人格神のようなものではありませんが―と呼びます。

 純粋形相とは、自分の持つ可能性を全て現実化し、それ以上変化することのない存在のことです。筆者はさらに、純粋形相は「他のすべての存在者をおのれへ引きよせよう」とするとも言います。
 この純粋形相もまた、一切の生成消滅を逃れていることから、プラトンが発明した超自然的原理自体はアリストテレスもしっかりと受け継いでいることがわかります。アリストテレスはプラトンの思想を超えようとしましたが、結果的には換骨奪胎となってしまった印象です。

感想

 今までソクラテス、プラトン、アリストテレスと言われてもさっぱりでしたが、基本的なことはなんとなくわかった気がします。むろん概略を歩いている感じなので知った気になるには世界史の勉強から必要でしょうが、とりあえず次章へ進みます。
 ソクラテスが無限性否定であったのは、存在することへの抵抗感があったからなのではないかな、と感じます。根拠などなく、本当になんとなくですが。

 読んでいただきありがとうございました。

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