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30歳過ぎて、NY留学した話 #4 -行く理由を考える。

行き先が決まり、改めてニューヨークに行く理由を考え始めた。

現実から逃げる理由を探していた。前向きに海外へ行くというよりは、色々なことに疲れて、とにかく早く当時の生活から抜け出したかった。

逃げたいと思う反面、野望もあった。様々な思いが交差して、絡み合って、「海外に行く」という理由を作り上げていたように思う。

その理由は、沢山あった。

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「英語を話せるようになりたい」

入社してから、複数の英会話・英語関連の学校に通ったり、先生を雇ったりしていた。定期的に続けられる性格ではないので、毎週必ず行っていた訳ではない。しかし、細く長く英語を学び続けていた。

英語文法を基本に教えてくれるところもあれば、ネイティブの先生が指定場所まで来てくれて英語でお話しする、というものもあった。後者のやり方で英語を習っていた時には、特にテキストなどもなかったので、正直ほとんどの時間先生が話していた。よく理解もしない英語に頷いて、勉強した気になっていた。

仕事では、年に一回くらいしか英語を話さなかったので、特にアウトプットする場所もなく、「海外で通用する人間になりたい」という夢だけ大きく、実力が何もない、という感じだったと思う。

TOEICは600点前半くらいだったと思う。英語をペラペラ話せる、という感じではなかった。

ので、この英語という難問の改善に取り組みたかった。


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「東京オリンピック後に生き残れる人材になりたい」

これも非常に大きな理由の一つだった。

2015年だっただろうか。私は宣伝会議が主催しているマーケティング業界向けの英語クラスに通っていた。そこで日本の経済成長と広告業界の推移を現したグラフを見た。

そこには、東京オリンピックでピークを迎え、そこから非常にゆっくりとした右肩上がりの線が描かれていた。大きな成長が見込めない悲観的なグラフであった。現在予測されている成長とは異なるものであるのは認識している。パンデミックとなり、ECが伸び、Tiktokやインスタグラムでのプロモーションで売り上げが伸びることは、まだ予測されていないグラフである。まだ大阪万博も決定していない時だった。現在でも少子化などで、マーケットが急成長することはないと考えられているが、当時は今よりももっと将来の日本経済に対して悲観的に考える人が多かったと思う。

そのグラフを見た時に、オリンピック後に経済が落ち込んでも生き残れる人材になる必要があると思った。このまま日本だけで物事を考えると、自分が食べて行け無くなるんじゃないかと不安になった。私も同じく悲観的だったのだ。

今ある世界から一歩外に出て、何かを進める必要があると思った。何かを。


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「もっとエキサイティングな人生にしたい」

当時の私は入社以来8年間突っ走ってきた。広告制作業界という多忙の波に飲まれていた。仕事が多過ぎて多忙というのには、色々な考え方があると思う。

・提出物と提出期間が多くて多忙
・調整事項が多くて多忙
・プロジェクト数が多くて多忙
・解決困難な仕事が多く多忙
・仕事を振り分けられる人がいず多忙

など、色々な種類の事柄があり、その結果多忙となる。

当時の私は、上記のほとんどが自分にのしかかっており、もう自分自身の精神をコントロール不可能なところまで陥っていたように思う。

事務的仕事とクリエイティビティを求められる仕事の両方をこなさなければならない難しさもあった。新しく生み出さなければならないものも多く、それが難しく時間を食ってしまい家に帰らない状況を作り出す。当時はイベントのプロデューサー業がメインだったため、「イベント開催日」という締め切りを前に、それを構成するための膨大な制作物達の締め切りに追われていた。

それらをこなすことは、楽しかったことでもあった。イベントという共通の土台には乗っているものの、クライアントは3ヶ月ごとに変わり、多くの人にも出会える。オフィスにいることもあれば、現場で日本全国色々なところにも行けた。IT系などのイケイケのイベントもあれば、堅い医療系のものもある。エンターテインメント系の仕事もあった。スーパースターにも会えた。その時々で業界の異なるマーケチームの一員になれた気がする。大抵の場合、それが楽しかった。だから、全力で打ち込んでいた。

ただ、様々なイベントを経験するうちに、自分のできることも増えていった。そして、仕事のパターンも見えてきた。そうすると、30代からの自分の姿が見えてきた。見えてしまった。

きっと、ああなるだろう。こうなるだろう。そして、この生活が続くのか、という虚しさに襲われる。仕事で詰め込まれた生活の中で、新しい変化を生み出すことの難しさは重々理解していた。きっとこのまま私は30代を送るのか。そう思うと、もっとアドレナリンの出る生活がしたかった。20代は十分アドレナリンが出ていたと思う。それがどんどんと生活に慣れ、分泌量が減った気がしていた。


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「アメリカのイベント制作を知りたい」

アメリカが行き先となり、自分の中でなぜ自分がイベント業界にいるのかを改めて考え始めた。

私は、子供の頃からアメリカのイベントやエンターテインメントに憧れていた。MTV Music AwardやMoviw Award、WWE、アカデミー賞、エミー賞、トニー賞など、子供の頃から豪華絢爛のアメリカン・イベントをテレビで憧れの眼差しで見ていた。

イベント制作に関わるようになり、西海岸のテック企業のカンファレンスやSXSWやCESなど米国展示会に対する憧れも強くなった。日本にはない規模での開催に羨ましい気持ちが大きくなっていた。

せっかくアメリカに行くのであれば、せっかくマーケティングを勉強するのであれば、アメリカでの自分の業界についても知りたいと思い始めていた。


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具体的なことは忘れてしまったが、その他にも理由はあったように思う。

・海外に住んでみたい。
・外国人の友達が欲しい。
・もっとインターナショナルな人材になりたい。
・ただ休みたい。ゆっくりしたい。
・海外で勉強したい。
など、単純な理由は沢山あった。

今考えると、何の理由でもニューヨークに行ったことは、人生の中でとても良い選択だったと思う。こんな色々な理由を並べないと、人は冒険に出れないのかと呆れる部分もあるが、それは私がそれまでの人生の中で培ったことを一度全て崩すことを恐れていたからこそ、様々な理由を作らないと乗り越えられない壁だったのかもしれない。