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梯久美子 『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』 新潮文庫

梯久美子先生は「ほぼ日の学校」の万葉集講座の講師のお一人だ。この講座は10回の講義で構成されていたが、2回の補講が追加された。一回が岡野弘彦先生の回を控えての予習会。もう一回が、10回プラス予習会の講座を終えた後の標題の本についての梯先生の講義(2019年8月21日)だった。万葉集講座としての講義ということで、講座のなかで先生がテーマにされた『昭和万葉集』に関連するものとしての軍人の歌、さらにその関連としての本書という位置付けでの補講であったと記憶している。十分に興味深い内容だったのだが、肝心の本のほうは買ったまま積読状態だった。文庫にしては分厚くて、読むのを後回しにしてしまっていたが、『エミール』という文庫3巻本を読了した勢いで本書を読み始めた。これがスゴイ本なのである。さすがに一気にとはいかないが、それでもかなりの勢いで読み通してしまった。

梯先生といえば『散るぞ悲しき』だ。こちらは新聞に出ていた書評をきっかけに単行本で読んだ。クリント・イーストウッドが監督をした"Letters from Iwo Jima"(邦題『硫黄島からの手紙』)と"Flags of Our Fathers"(同『父親たちの星条旗』)も劇場で観た。映画が本と関係あるのかないのか知らないが、世の中にはどのようなことも起こりうるのだ、と思わせる映画であり、本だ。ノンフィクション作家というのは並大抵の仕事ではないと圧倒された。

『散るぞ悲しき』は硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道陸軍中将(戦死と認定され、特旨をもって陸軍大将に親任される)が最期を前に大本営へ打電した決別電報のなかで詠んだ歌の一節だ。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ悲しき
仇討たで野邊には朽ちじ吾は又七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の皇國の行手一途に思ふ

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2012年3月12日 防衛省市ヶ谷記念館に展示されていた原本をガラスケース越しに撮影

これらの歌が大本営発表により新聞に掲載された時には、第一首の最後の部分が修正されていた。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ口惜し

梯先生はこの修正から栗林を、硫黄島を、戦争を、国家を説き起こすのである。その筆力もさることながら、『散るぞ悲しき』を執筆するために集めたであろう材料の収集力と取材力、構想力にはただただ感心して頭が下がる。

本書と関連する万葉集講座の補講で、梯先生は軍人の歌をマクラに説いた。山本五十六が亡くなる年、日本を離れる前に愛人である河合千代子に送った手紙の末尾に歌を付けたという。

ほろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや

これは『万葉集』巻十一にある

凡ろかに我し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも

の本歌取りだそうだ。栗林だけでなく、軍人は最期を前に決別電報に歌を詠んだ。そういう公的なものだけではなく、愛人への手紙というようなものにも歌を添えるのが、おそらくある階層以上の人々の間の常識のようなものだったのだろう。そこに平文では表現できないこと、平文の行間のようなことを語ったはずだ。ということは、そうした人々について調べたり語ったりする現代の人間も当然に和歌や短歌についての嗜みがなければならない。ところが現実には短歌も俳句も今は一般常識とは言い難い状況だ。こんなことで「歴史」だの「文化」だのを語ることができるのだろうか。『散るぞ悲しき』を読んだ時、そういうことに全く縁のないままに長い年月を生きてしまった自分に対して危機感を覚えた。歴史は自分自身なのである。

ところで、海軍甲事件の後、当時の首相である東條英機の使いと称する者が河合千代子のもとを訪れて自決を迫った、という証言があるそうだ。それもまた日本という国家、歴史の何事かを語るものである。

『死の棘』の作者である島尾敏雄は海軍少尉で第十八震洋特攻隊指揮官として終戦を迎えた。梯先生は今度は『死の棘』を取り上げ、そこに描かれた作家の妻であるミホに焦点を当てて本書をまとめた。本書も『散るぞ悲しき』も何がスゴイかというと、行間から怒涛のごとくに溢れ出す取材の量と質だ。このような作品に巡り会えたことを幸せと呼ばずにどうする、と思う。

話がやっと本書につながったところで一旦休憩する。

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