見出し画像

内田百閒 『御馳走帖』 中公文庫

「御馳走」といって何を思い浮かべるか、というところにその人の人となりとか生き方のようなものが表れる気がする。字義としては、奔走してあれこれ集めてこしらえた料理ということだろう。私は貧乏性なので、そんなことをしてもらったら恐縮して喉を通らない。尤も、出されれば有り難く頂くとは思うが、経験がないので本当のところはわからない。

食べ物の好物としては大豆と大豆加工品、特に納豆だ。豆腐は冷奴も湯豆腐もどちらも好きで、醤油はいらない。醤油をつけるとしたら、美味い醤油でないといけない。せっかくの豆腐の味を邪魔して欲しくないのである。もちろん、納豆にも醤油やタレはいらない。いらない、のではなく入れてはいけない。邪魔だ。油揚を焼いて、美味い醤油をつけるのは良いが、そうでない醤油ならいらない。実は、それ用の醤油はちゃんと用意してあって、切らさないようにしている。

たまに妻が豆腐を作る。自分で作ると好みの固さにできる。本当に好みの固さにすると、大量の大豆を消費して僅かな量の豆腐しかできないことに愕然とする。美味いけれど精神衛生には良くない。気楽に買ったほうがいい。なんでも自分で作れば良いというものではない。油揚には味噌をつけるのも良い。

味噌は自分で作る。今消費しているのは2018年か2019年に仕込んだもの。毎年寒の内に作業をする。茹でた大豆をすり潰したものと塩と糀の混合物を「味噌」にするのは私ではなく主に糀菌の働きだ。ここ数年は神田明神前で育った糀を使っている。大豆は北海道産のことが多いが、東京農工大の演習畑産のものを使ったこともあったかも知れない。10年ほど前に初めて味噌を作ったときは富山の豆だった。味噌の味は豆よりも糀に左右される気がする。来月は味噌を仕込む月だ。

余談だが、こうじは「麹」ではなく「糀」と書きたい。麦ではなく米で培養したものを使うからだ。「麹」と「糀」のことは、以前に発酵学の権威である小泉武夫先生の講演を聴いて大変感銘を受けて以来、気をつけている。

世間には「手料理」だとか「手作り」だとかを無闇に有難がる風潮があるように感じているのだが、不味いのはダメに決まっている。「気持ち」の問題はこの際二の次だ。なかには手をかければかけるほど不味くする不可思議な特技の持ち主もいるが、そういう不合理に時間と労力をかけるのは即刻止めるべきだ。人類のために。限りある資源を無駄にするのは許されない。

また、そいう反逆者を煽てるのも同罪だ。不味いときに正直に「不味い」と言えない人間関係は既に破綻した関係だ。食は生命に直接関わることであるということを忘れてはいけない。そういう生きることの根幹で無理を重ねると互いにとってとんでもないことになる。

確かに、諦めずに「頑張る」という姿を「美しい」とする見方はある。しかし、それは他人事だから「美しい」のであって、自分のこととなるとそんなことは言ってられない。料理に自信がないなら、料理をすることに特段の喜びを感じないなら、無理をせずに納豆とか豆腐といったものをどこかで調達すれば良い。そこにアツアツのご飯があれば、これに勝る御馳走はない。

ご飯といえば、今、ふるさと納税でいただいた南魚沼のコシヒカリを食べている。美味い。あちこちの米を取り寄せて食べているが、他とはレベルが違う。私は職場に弁当を持参しているので、冷たくなったご飯も食べる。南魚沼のコシヒカリは冷や飯でも美味い。今は賃労働に従事して給与所得があるので、確定申告をすることによって実質無料であちこちの産物を頂くことができているが、近くそういう結構な身分とは決別することになるので、その後のことも考えないといけない。魚沼のコシヒカリは買うと高い。勤めを辞めた後は、たぶん、食べられなくなる。調子に乗って贅沢をしていると後になって辛くなるかもしれない。しかし、明日のことなどわからないのだから、食べられるときにうんと食べておく。

ところで、自分で作る納豆や豆腐に使う大豆やふるさと納税でいただく米は国内産だが、市販の加工食品の原材料となる漁業農産畜産物は殆ど輸入品だ。農林水産省の統計によれば、2020年のカロリーベースの食料自給率は37%だ。さすがに米だけ見れば98%だが大豆は21%でしかない。小麦が15%、畜産物は47%だが餌を考慮すれば17%、魚介類は51%だが海のものを日本の資本が水揚げに従事したというだけのことだし、今や漁船員の多くが他所の国の人であることも勘定に入れたら意味がある数字とはいえまい。

しかし、そもそも食料を自給することは可能だろうか。第二次世界大戦後、世界は自由貿易と市場原理を宗として歩んできた。関税や諸政策による多少の制限はあるものの、原則として必要なものは世界中どこからでも調達できる建て付けになっている。直近の事例では、例の感染症のワクチンは全量輸入だが、今やほぼ全国民に行き渡り、製造国よりも低い感染率を維持している。その感染症で人の往来は途絶えても物流は概ね維持されて、生活に特段の問題は起きていない。それどころか、在宅勤務で運動不足になり肥満した人が増えたという話は聞くが、食料が不足して大変だという話は聞かない。自給率が37%でしかないのに、だ。

食料自給率の定義からすると自給と生産は実質的に同義だが、入手に関わる政治、外交、行政、経営、その他国家としての総体の枠組みのなかでは、食料自給と食料生産は同義ではないのである。思い切りざっくり言ってしまえば、稼ぐことができるうちはゼニを出せば大抵のものは手に入るのである。もし、「食糧安保」というような化石古典的概念に拘泥するなら、「100%」以外の数字は意味を成さない。つまり、自給率の数字に意味はないのである。そもそも今の日本にとっては達成不可能だ。

農業は、どれほど手間暇かけ、全身全霊を尽くしても、例えば収穫前に台風が来たら、その年は収入が無い。AIだかITだかを駆使してどうこうと吐かす輩がいるが、現実は自分の頭で考え自分の手足を動かさないと何も産まれてこない。どこかに雇ってもらって何をしてもしなくても決まった日に給与が支給される廃人製造業とはわけが違う。

「この道一筋50年」といえば大抵の仕事なら「熟練者」とか「達人」とか、ひょっとしたら「神」と呼ばれる領域に入る。しかし、農業の場合はたった50サイクルしか経験できていない。しかも、今年と同じ四季は二度と巡ってはこない。或る特定のパターンを各一回50回経験しただけ、つまり、常に初心者だ。人に当然に自己実現欲求があるとすれば、仕事で満足を得るというのはなかなか難しいのが農業だ。しかも、自然相手なので、自分の都合で勝手に休んだりできない。そういう暮らしに一生を賭ける覚悟が要求される。放っておけば農業に従事する人が減少するのは自然なことだ。

それでも食料自給率を本気でどうこうしようと語ることのできる人はこの国にどれほどいるだろうか。現実は、政治や行政の立場上は食料自給であるとか食糧安保といったことを標榜する姿勢を見せつつも、ゼニでどうこうできるうちはゼニでとりあえずの型をつける、ということだろう。人は他人事には雄弁だが、自分のことには寡黙になるものだ。

で、本書のことだが、内田はいわゆる美食家ではない。だから、読んでいて我が事のように愉しい。殊に食は生命に関わる一大事だ。そこに向き合う姿勢は生き方そのものとも言える。当然に食を巡って人間関係も露わになるし、綺麗事ではない人の本性も露わになる。本書だけでなく、『東京焼盡』を読んだ時も感じたのだが、誰彼となく内田の好物を気にしている様子が描かれていることに憧憬を覚える。好物と言っても、酒やビールなのだが、それにしても物資の乏しい時代ですら、周囲が気遣いをしてくれるのは、やはり内田の人徳だと思うのである。「御馳走」とは食べ物のことではなく、その背後にある人間関係のことを言うのだとつくづく思った次第だ。


この記事が参加している募集

#わたしの本棚

18,762件

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。