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旧ソ連考 『危機言語 言語の消滅でわれわれは何を失うのか』

1989年5月の終わりから6月の始めにかけて西ベルリンを訪れた。「ベルリンの壁」が見たかった。東西の通行窓口の一つであるチェックポイント・チャーリーと呼ばれる検問所の近くに「壁の博物館(Mauer Museum)」があった。今もあるらしい。そこには東から西への逃亡の記録が展示されていた。記録というのは、逃亡の方法についての解説、逃亡に用いられた道具類の実物あるいはレプリカ、逃亡に失敗して命を落とした人の名簿、などであった。その名簿の最後に記されていたのは、ハンガリーからオーストリアへ国境を越えようとしてハンガリーの国境警備隊によって射殺された人だった。日付は確か1989年3月27日か28日だった。今、我々は1989年11月9日に東ドイツから西ドイツへの越境制限が廃止されたことを知っている。11月10日には「ベルリンの壁」と呼ばれていた物理的障壁の取り壊し作業が開始された。他の東西国境でも同様のことが行われた。3月の終わりに東西国境を無理に越えようとして命を落とした人は、その越境を数ヶ月先まで思い留まっていれば、そこで命を落とさずに済んだかもしれない。

当時、ソ連が国家として崩壊の危機に瀕しており、ソ連の衛星国も動揺していた。一党独裁による計画経済という社会経済体制が実質的に破綻していたということでもある。しかし、それが完全に機能しなかったというわけではないだろう。その「東側」と呼ばれた地域で暮らしていた人たちも自分の「意志」で命懸けで「自由」を求めて自分が所属する国家共同体からの逃亡を図ったのである。そういう強い意志を持った人々が存在したということは、国家共同体としては一応機能していたと見ることができるのではないか。逃亡者がいるから失敗、ではなく、逃亡しようという意志を持つ者が存在する程度に国家として機能していたと見ることができるのではないか、と思うのである。

そのソ連だが、1991年の崩壊後にある程度自立できた構成国もあり、新生ロシア連邦に帰属せざるを得ない構成国もある。興味深いのは、ウクライナとロシアがああいうことになって、日本のメディアでのウクライナの地名表記がロシア語読みからウクライナ語に変更されたことである。首都は「キエフ」から「キーウ」に変わった。ああいうことにならなければ今でも「キーウ」は「キエフ」のままだったのだろうか。つまり、ウクライナはロシア連邦には帰属していなくても実質的にはロシア語の国のままだったのだろうか。

私は友達がいないくらいなので、世情に大変疎い。家にテレビがなく、新聞の購読もしていない。しかし、漏れ伝わってくることから想像するに、あれはロシアが突然ウクライナに軍事侵攻を行ったということではなくて、ソ連の時代から燻っていた何か深刻な問題があったのではないか。スターリンはグルジア(現ジョージア)の出身だが、それに続くフルシチョフとブレジネフはウクライナの出身だ。しかも二人ともそれぞれ10年超の長期政権(フルシチョフ在任期間:1953-1964、ブレジネフ:1964-1982)を担った。単にロシアに次ぐ経済力があったという唯物的な意味だけでなく、たぶんウクライナはソ連という国の在り方の中核でもあった。ソ連は公式に「公用語」を定めていたわけでないが実質的な公用語はロシア語だった。ウクライナは公用語はウクライナ語だが、ソ連崩壊後もウクライナ語ではなくロシア語で語られる国だった。なぜだろう?ソ連崩壊とは、単純化してしまえば、ロシアとウクライナの分裂だったのではないか。

ソ連は崩壊時で領土面積22,308,143㎢、世界最大の国家だった。当然、多数の言語集団を擁するが、ソ連として認定する言語集団であるか否かはそれぞれの言語集団にとっては存亡を左右する大問題だった、はずだ。

そこの議論で出された結論は、問題になっている民族のステイタス(地位)にかかわるものであり、行政上の処遇を決定するものである。その民族の母語が、価値のないもの、あるいは固有のものでなく単に方言だとされれば、その独立の存在は認められず、母語の使用の権利も認められなくなるのである。だからこそ一九三七年、ソ連では、民族と言語の認定に関する党の公式見解に同意しない、数多くの民族学者と言語学者が亡き者にされたのだ。

田中克彦『「スターリン言語学」精読』岩波現代文庫 29-30頁

ゴルバチョフの時代に外務大臣を務めたエドゥアルド・シェワルナゼの辿々しい演説の姿が今でも印象に残っているのだが、彼はグルジアの人だった。外務大臣ほどの人が辿々しいロシア語を話すということは、おそらく普段はグルジア語を母語として生活していたということであり、そういうことが許容されていたということだろう。つまり、ソ連の中でロシア語は実質的には公用語だが、必ずしも日常生活においてロシア語を母語としない人々に強制されるものではなかったということだ。それはソ連の成り立ちに関係があるらしい。

 ソ連邦は出発の当初から、諸言語の全くの同権、平等という原則から出発した。しかしロシア語以外の言語は日々爆発的に生まれる、行政機構や科学技術を受容するために必要な語彙をまだそなえていなかっただろうし、正書法も定着せず、文字をそなえていない言語では、困難はさらに大きかった。
 実際には話し手人口の多さによって、それらの言語には印刷手段の保障や出版において等級がつけられたであろうが、原則は、基本的には同等であった。行政、文化の用語としてのロシア語の普及は、当然であったし、避けられないことであった。
 しかし、ロシア語の全連邦的規模での使用を法的措置によって義務付けることを固く禁じる文書があった。それはまだ革命前、一九一四年に発表された、「強制的な国家語は必要か?」という、わずか四ページほどの短い、レーニンの論文である。

田中『「スターリン言語学」精読』 170頁

歴史上、所謂「革命」で成立した国はいくつもあるが、そういうところはどうしても革命指導者を個人として崇拝したり、革命理念を文書化したものを教条主義的に信奉する傾向がある気がする。現実が目まぐるしく変化する中で、そうした変化を想定していない革命時の理念や理想が現実の行政や政治と矛盾する状態は当然に起こる。そこで理念にこだわるのか、現実の国益を優先するのか、というあたりにその国の「国家」としての堅牢さというか安定感のようなものが問われることになるのだろう。

第二次世界大戦の中で、ソ連はドイツとの戦争を「大祖国戦争」と呼ぶ(日本への侵攻や自国が直接関与していない他の戦線はそこには含まれない)。約2,660万人(現ロシアの公式発表、諸説あり)という途方もない犠牲を払ってソ連は勝利したが、その損害ゆえにその後のソ連の復興負担は多大で、結果としてソ連という国家の寿命がだいぶ縮まったという面はあるだろう。また、その負荷による余裕の逼迫が外交において強面を押し通さざるを得ないことにもなり、それがまた国民経済を圧迫することにもなったのではないか。現在のウクライナはその独ソ戦の激戦地の一つだ。ソ連を実質的に継承している現在のロシアがウクライナに向ける眼差しと、激戦地として徹底的に破壊された後に旧ソ連の中で比較的恵まれた農耕環境と工業基盤の故に復興の負担をかなり大きく担った側のウクライナがロシアに向ける眼差しには、その辺りの事情も関係している気がするのである。

ソ連が崩壊して15の国になった。15カ国のうち、ロシア語を主要言語にしているのはロシア連邦だけだ。ソ連の実質的な公用語がロシア語なら、ロシア以外の国々も国家体制変更後もロシア語を使い続けた方が実務的には容易なはずだ。ウクライナだけでなく、現在ロシアと同盟関係を結んでウクライナに対峙しているベラルーシもロシア語ではなくベラルーシ語を公用語にしている。15カ国がそれぞれの公用語を使っているのである。このことは、ソ連崩壊よりもソ連成立と関係しているのではないだろうか。つまり、革命の正当性を保証しなければ、それに続く現在の体制を正当化できない事情があるのではないか。それと言語集団の自立や自決が関係しているのではないか。

「歴史の歩みによって、無慈悲に踏みつぶされたこれら民族の残骸、民族の屑は、完全に根絶やしになるか民族のぬけがらになるまでは、反革命の狂信的な担い手であることをやめない。というのも、そもそもその存在そのものが、偉大な歴史的革命に対する反抗だからである」というエンゲルスに代表されるような、優性民族・言語が劣性民族・言語を吸収淘汰して当然とする見方がマルクス主義の主流に根強かった頃に、「十月革命は、古い鎖をたちきって、わすれられた多くの民族を登場させ、彼らに新しい生活と新しい発展をあたえた」というスターリンの言葉は画期的に響く。
 もちろん、この言語・民族観はスターリン自身が、ゴミ屑扱いされたグルジア民族の出であること、またロシアが諸民族の牢獄と言われた多民族国家であったことと無関係ではない。スターリンの言語論が同じ多民族国家オーストリアの革命家、あの「背教者カウツキー」から多くを借用しているという指摘も、興味深い。
 ソ連憲法にロシア語を国家語として定めなかったのも、民族自決権がうたわれ、あらゆる民族や少数民族が母語で教育を受ける権利を保障されたのもここから来る。一方で、言語と民族の関係を正確に把握していたからこそ、スターリンは、あれほど徹底的、残虐かつ効果的にチェチェンや、クリミヤ・タタールなどの連邦内少数民族に対する絶滅作戦を展開しえたのであろう。
 悪は「まともさ」の延長線上にある。だからこそ恐ろしい。

米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫 45-46頁 初出『週刊文春』2001.5.24

ちなみにこれら15カ国合計の現在の人口は約3億人。最大はロシアの1億5千万人弱、最小はエストニアの130万人。ウクライナは約4千万人だが、ロシアに次ぐ規模だ。現在のロシア連邦の領土面積は約17,100,100㎢で依然として世界最大である(世界二番目のカナダが約9,850,000㎢)。

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