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米原万里 糸井重里 『言葉の戦争と平和。米原万里さんとの時間。』ほぼ日WEB新書シリーズ

しんさくさんのnoteのことについて書くときに茨木のり子の『詩のこころを読む』を引っ張り出してぱらぱらとめくった。たまたま我が家の棚の『詩のこころを読む』の隣に田中克彦の『ことばとは何か』があって、ついでにのぞいてみたら、これが面白かった。田中の本はほかにもあって

『ことばと国家』岩波新書
『現代ヨーロッパの言語』岩波新書(H.ハールマンとの共著)
『「スターリン言語学」精読』岩波現代文庫
『チョムスキー』岩波現代文庫
『法定にたつ言語』岩波現代文庫

なんかが並んでいる。なんでこんなに田中ばっかりあるのだろうと思ったら、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)のなかに田中の『「スターリン言語学」精読』があって読んだからだ。それがきっかけとなって続いたのだろう。他人事のように書いているが、だいぶ前のことなのでよく覚えていないのである。時間が経てば自分も他人だ。

その米原の著作を手にするきっかけになったのが「ほぼ日WEB新書シリーズ」の糸井と米原万里の対談だった。あらためて読み直すとガツーンと来る。

糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』は面白かった。現在の「ほぼ日」になる前、東京糸井重里事務所の頃のことだ。その面白かった頃のコンテンツのなかでも対談が好きだった。今、こうして短歌や俳句を詠んでみようなどと無謀なことを試みてみて、改めてことばというものを考えるようになった。少なくともここに挙げた田中や米原の本くらいは再読しないといけない、と今は思っている。

この米原糸井対談は、米原亡き後に『ほぼ日WEB新書シリーズ』のひとつとして2014年8月に公開されたもので、私はこれで初めて米原万里という人を知った。この対談記事を読んでから、先ほど触れた『打ちのめされるようなすごい本』、自叙伝のような『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)、雑誌『ユリイカ』(青土社)の米原特集号(2009年1月号)を読んだ。ただただ感心した。

米原の本職はロシア語の通訳だ。言葉の専門家であるから言葉というものに対する姿勢は厳しい。対談の冒頭でいきなりこんなことを言うのである。

米原:通訳をやっていく場合には、両方とも、ほぼ同じレベルで知らないと、雇ってもらえなくなりますから。
糸井:‥‥あ、単純に、職業として、そういうものなんですか?
米原:そうです。両方ともちょっとずつ知っているというかたちでお金を稼ぐ通訳は、できるのかしら?
(「第1回 もうひとつの世界を持つということ」対談収録日2002年10月)

米原の言葉のなかの「両方」とは自分の国と相手の国のことだ。通訳に限らず、どのような仕事でも、目先のことだけでは仕事にならないはずだ。自分の組織と取引先の組織の両方をそれぞれの環境や事情を含めて理解して、初めて目先の小さな行為が意味を成す、はずだ。自分は社会で一貫して賃労働で生計を立ててきたが、果たして自分のその賃労働を背後の世界を含めてきちんと理解した上で働いてきただろうか。かなり心許ない。しかし、お気楽に生きてきたからこそ、こんな年齢になるまでなんとかなっているというのも一面の真理だと思う。そうでなければとっくに消耗して命を失っているか、心を失っているか、廃人になっているだろう。

言葉は自分自身だ。だから同じ言語を話す相手であっても理解し合えない。自分が言いたいこと、伝えたいことがまずあって、それを表現するために自分が理解しているつもりになっている言葉を紡ぐ。しかし、一つ一つの言葉には自分の経験と結びついた理解をしているので、字面の意味はやったりとったりできても、そこに込められたものが伝わるかどうかは別の話だ。

米原:そうそう。で、無難にしたいんです。無難にしようとしたら、基本的には字句どおり訳すのが、いちばん無難なんですよ。
でも、日本とほかの国とはぜんぜん字句の意味が違うから、字句どおり訳すと、かならず誤訳になるんですよ。
(「第4回 無難な翻訳=誤訳」)

「字句どおり訳すと、かならず誤訳になる」というのも翻訳に限ったことではないような気がする。物事に「型」というものがあるとして、それをそのまま踏襲して終わったつもりになったら、やらないのと同じことだろう。場というものは時々刻々変化している。型や手本がそのまま通用するはずがないことは考えなくてもわかりそうなものだ。何かというと「コツ」だとか「要領」だとかを求め、楽をして済ませようとするものだが、そんなものがあるようなことをわざわざやる必要はそもそもないのである。必要のないことに手を出すとろくなことにはならない。やはり、生きることは敢えて厄介を背負い込むことであるような気がする。

そうやって一生懸命に生きれば生きるほど世間からズレていく。もちろん、社会に生きるものとしては秩序を尊重しないわけにはいかないが、己の人生丸ごと世間に付き合うほどの義理もないだろう。社会秩序も大事だが己の生活も守らないといけない。個人あっての社会であり、社会あっての個人だ。このあたりの兼ね合いを見失うと精神の健康を損なう。

米原は日本語の特徴をメディアの種類と関連付けている。これには目から鱗が落ちる思いがした。まず、日本語は羅列的だというのだ。

米原:通訳って、人が言っているのを理解して、それから今度それを表現しなくちゃいけないから、「理解するプロセス」と「表現するプロセス」と、両方があるんです。
これ、違うプロセスなんですよ。ご存じのように、理解するときには分析的になるんですね。で、表現する時には今度は、統合的になるんですよ。
というのは、いろいろなものを、ひとつにまとめて表現しないと、相手に向けては表現することができないわけですから。羅列になってしまいますからね、バラバラの考え、というのは。
日本の学者の発言は、羅列が多いの。いかに知識がたくさんあるかということはわかるんだけど、それぜんぶを1つにまとめる統合力というのがない。恐らくこれ、訓練をしてないからだと思うんですね。
(「第13回 熱演だけじゃ、説得できない」)

羅列的な発言が多いのは紙が潤沢だったからだというのである。

米原:恐らく日本人がロジックが苦手になったのは、教育もあるけれども、紙が余りにも潤沢に手に入り過ぎたせいだと思います。
糸井:おもしろいなぁ、その考えは。
米原:結局ロジックって何かというと、私、通訳していてわかるんだけど、日本の学者はロジックが破綻しているのが多いんです。基本的には羅列型が多いんです。
それでヨーロッパの学者は非常に論理的なんです。現実は、世の中そんなに論理的じゃないんですよ。論理というのは何かというと、記憶力のための道具なんですよ。物事を整理して、記憶しやすいようにするための道具。
ところが、紙が発達した国は書くから、書く場合には羅列で構わないんですよ。耳から聞くときには論理的じゃないと入らないんです。覚え切れないんです。
糸井:おもしろいなぁ。
米原:だから、日本人とか漢字圏の紙が豊かな文化圏の人たちの脳というのは、視力モードなんですよ。目から入ってくるものを基本的に受け入れやすく覚えやすい脳になっているんです。ところが、ヨーロッパ圏の人々は聴力モードなんです。耳から入ってくるものにより敏感に反応して、より覚える脳になっているんです。
製紙業が始まったのは中国ですよね。それで日本も非常に紙が豊かな国で、試験もほとんどペーパーテストですよね。それで、考えをまとめたりするときにすぐ書く。ところが、ヨーロッパでは、紙はものすごく高価だったんです。だから、ほとんどの人は紙を使えないわけです。授業で生徒が紙を使うなんてぜいたくだった。
そうすると、紙を使えない人はどうするか。なるべくたくさん覚えなくちゃいけないわけです。覚えるためには論理が必要なんです。論理とか物語とか、そういったものがないと、大容量の知識を詰め込むことはできないんですよ。だから、論理が発達するんですね。
(「第18回 ロジックは記憶の道具」)

確かに、昔イギリスで暮らしていた時、ノートの紙質が悪くて不思議に思ったものである。つい30年ほど前ですらそんな状況だったのだから、時代を遡れば、西洋での紙の希少性は日本の比ではなかっただろう。そういう中でそれぞれの地域の言語が形成されてきたのである。

米原:本当に論理と物語というのは、記憶力のためにあるんだと私は思います。
琵琶法師っていますでしょう?あの人たちは盲ですし、目が見えないですよね。で、膨大な「平家物語」を丸暗記しているわけです。
それに、プラトンは、「ソクラテスがこう言っていた」といって引用しているんだけれども、「結局、世界にたくさんいた吟遊詩人たち(詩をたくさん暗記している人たち)は、文字が出てきたときには、みんないなくなってしまった」と。
文字が記憶の役割を果たしてしまい、記憶を頭の中じゃなく外で外在化して保存することができるようになったら、知能を使わなくてよくなったんですよ。
これは物語ですけど、論理にもそんなことが言えるのではないかと思います。
(中略)
米原:人々が、文字ができた途端に、どんどん忘れていくという。人間って基本的に怠け者だから、脳も含めて。
いろんな負担を、どんどん軽減しようとするんですよ。記憶力みたいな負担も、どんどん軽減しようとして、文字を発明して、計算みたいなことも、今、コンピュータがどんどんやってくれるようになって‥‥。

糸井:外部化ですよね、どんどんどんどん。

米原:本当は脳がやっていた、いわゆる雑用部分をぜんぶ機械に任せてしまって、最も創造的なクリエイティブなところだけを脳がやる‥‥おいしいところだけ‥‥というふうに人間は、していますよね。だから、肉体労働だけじゃなくて、脳の雑用もぜんぶ、何かに任せてしまう。
でも、おそらく創造的な力って記憶力と、すごく関係していると思うんですよ。
(第19回(最終回)記憶は創造の源泉」)

こうした言語の違いのそもそもに目を向けようとする人は多数派ではないと思う。私自身もここ15年ほどは翻訳関連の仕事で生計を立てているが、世間では言語の違いを表面的な現象としか捉えていなくて、AIが発達すれば自動翻訳や自動通訳は簡単に実現すると思っている人が驚くほど多い。言語はそれを使う人の経験の上に成り立っているはずなのに、言語とは何かというそもそもを考えずに表面的な技術論に落とし込んで考えようとするのである。表層の字句の置き換えで済むことが多いのも事実なのだろうが、それでだけ済むくらいなら、こんなに多くの言語が世界に存在し続けるはずはない。テクノロジーの発達で言葉が軽くなった、というのはその通りかもしれない。しかし、だからといって世界の言葉が一つになるわけではあるまい。言葉については、自分自身のこととして考え続けたい。

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