note: 『しんさく』
初めてnoteでひとりの投稿者のページを最初から最新まで読み通した。投稿のはじめが今年3月で、文章量がそれほど大きくないことも幸いしているが、なによりも文章に惹きつけられてしまった。「あなたへのおすすめ」として掲載されていたもので、昼間、職場のトイレで何気なく開いたページだった。そこから、仕事中の手の空いた時、帰りの電車の中、帰宅後風呂上がり、と読み継いで晴れて読了。心が洗われるような気持ちになった。
しんさくさんのnoteには定時制高校のことが登場する。夜学で思い出すのは映画『男はつらいよ』で伊藤蘭がマドンナの回だ。伊藤が授業を受けているところに寅さんがやってきて開いている窓から顔を出す。黙って授業を観ていられるはずはなく、松村達雄が演じる教師に招き入れられる。その授業で語られているのが濱口國雄の「便所掃除」だ。
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくさします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞に おそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
心臓 爪の先までくさくさします
落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします
朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ですわっています
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
濱口は国鉄の職員だった。この詩の便所は駅の便所だろう。まだ水洗ではない時代のことだ。昔の駅の便所というのは本当に汚くて、そこで用を足すのは非常事態のときくらいだった。たぶん、多くの人にとっても同様であっただろうから、便器が汚れるのは仕方のないことだ。そうなると、我慢できる人は使わず、汚す人しか使わないので、汚れが汚れを重ねる循環になる。便所の掃除は駅員の役割で、駅員は他にもたくさん仕事があるので掃除専任というわけにはいかない。汚れの循環は容易には断ち切れないのである。当時の駅の便所に比べたら今の駅のトイレは夢のようにきれいだ。そういうことを頭に置いてこの詩を読まないといけない。
この詩は茨木のり子の『詩のこころを読む』にも掲載されている。茨木はこの詩をいろいろに解説して最後にこうまとめている。
汚いものでも十分詩になり、詩語という特別のものは何もなく、ふだんの言葉が昇格するだけで、詩の美しさは結局それを書いた人間が上等かどうかが、極秘の鍵を握っているらしい……そんなこともいろいろ教えられます。(茨木のり子『詩のこころを読む』岩波ジュニア新書 129頁)
茨木のり子の詩が好きで、詩集を持っている。しんさくさんのnoteの世界は、茨木のり子の詩の世界ともいい塩梅に重なる気がする。そして、たぶん、しんさくさんは美しい人であるような気がするのだ。