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退職エントリ 第1135話・3.21

「ありがとう」俺のグラスには、なみなみと瓶からビールが注がれていた。
 今夜は俺がリーダーを務めているプロジェクトメンバーの後輩と飲みに出ている。プロジェクト自体はまだ終わっていないが、週に1度は息抜きのため会社の近くにある大衆居酒屋で飲んでいる。
 いつもは俺から誰かを誘うことが多いが、今日は後輩のほうから声をかけてきたので、ふたりっきりで付き合うことにした。
「いつも君が残業してくれたので、一時は心配していた進捗も持ち直したよ。おそらく顧客への納品は間に合いそうだ」

 俺がそう言って上機嫌に黄金色をした炭酸水を口に運ぶ。何度も飲んでいるのに、仕事が終わってからの最初の一杯ほど感動的にうまさを感じるのは不思議なものだ。
 炭酸の刺激が口の中を潤いを与え、喉に入った時に味わえる渇きをいやす爽快感がたまらない。さらにその奥からほのかに感じるモルトのアロマが口の中から湧き出る。どれをとっても俺にとっては至福の時だ。
「あの、実はお話が」ここで後輩が急に真顔になる。「どうしたんだ、急にそんな改まって、もう仕事は終わった。楽しく飲もうじゃないか」

 そう言って俺はもう一口飲む。気が付いたらグラス3分の1に減っている。後輩も口につけたがあまり飲んでいない。
「どうした、お前から誘ってきたのにほとんど飲んでいないではないか」俺は後輩の様子がおかしいことに気づいた。後輩が再びビールを注いでくれる。俺は軽く頭を下げると、後輩はようやく口を開いた。

「実は、僕、今度のプロジェクトが終わったら会社を辞めようと思っているんです」俺は後輩の一言に、口に含んでいたビールを吹き出しそうになるが、慌てて一気に喉の奥に押し込む。おかげで少しむせてしまう。
「う、ぐ、ぐふぉ、ぐ、ふぉふぉ!」「大丈夫ですか、先輩」「い、いや、ぐ、ふぉ!」俺は何度かむせた後ようやく落ち着く。
「いや、だ、大丈夫だ。君が突然とんでもないことを言うから慌てたよ」
「申し訳ございません」後輩は素直に謝った。

「まあ、君の人生だし、プロジェクトが終わってからというから、それは仕方がないのかもしれない。けど、なぜ急に会社を辞めようと思ったんだ」 俺は単純になぜ後輩が会社を辞めたがるのかが疑問に思った。もし俺のやり方に対してひそかに不満があるのなら、それは俺のほうでも再考しなければならない。

「はい、実はですね。僕はやりたいことがようやく見つかりまして...…」うつむきながら後輩は語りだす。後輩によれば、彼はかねてからやりたいことがアバウトに浮かんでいたのだという。だけど、それは今の安定的な生活を捨てることになり、なかなか踏み切れなかったという。
 ところが今回のプロジェクトをやりながら徐々にその思いが強くなったとかで、プロジェクトが見事に終わったタイミングであれば、俺や会社に迷惑をかけないだろうという考えだったそうだ。

「そ、そうか、わかった。その旨、上司に伝えておこう」
 俺はそこまで言うと、内心俺のせいでは無いということなので安心した。 
 普段の後輩の様子を見ても不満を持っているようには見えないし、そもそも俺に問題があるのなら、いくらプロジェクトのリーダーだとしてもこうやって飲みにはいかないはずだ。
「あの、もちろん、プロジェクトが終わるまでは、僕これまで通り」
「うん、そう言ってくれると嬉しい。君が会社を去るのは残念だが、人それぞれの人生だ、俺が反対することもできないし、会社もそうだと思う」
 そこまで言うと俺はビールを口にして、ちょうど運ばれてい来たおつまみに箸を突き出した。

「では、改めていただきます」後輩は言いたいことがすべて吐き出されて安心したのか、ビールを一気に飲み干す。
「よし、これからは君の将来を祝ってのお祝いとしようか、さあどんどん飲もう」
 この後は、とことん飲んだ。終電近くまで飲み、ふたりともずいぶんと酔った。とはいえ明日の仕事への影響はおそらくないだろう。これまでも次の日の仕事の有無とは無関係で飲んでいたし、少し二日酔い気味でもしっかりと出勤できている。そもそも俺も後輩も大の酒好きなのだ。

 こうして会計となる。後輩から誘ったからと思ったが、やはり先輩として彼の新しい旅たちということもあり、全額ではないが俺のほうが多い目に支払った。

「ふう、飲んだなあ」後輩と別れての帰り道、思わぬ出費に少し頭が痛かったのは事実である。だが、それでも夢を求めて旅立とうとする後輩のことを思うと悪い気がしなかった。


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