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久保 第838話・5.11

「久保...…」俺は目の前の看板に書かれた、漢字2文字を見て思わず口走った。「なんだこの言葉は...…」俺にとって「久保」という二文字がやけに気になる。理由はわからない。なぜならば今の俺は、本来あらゆることに無関心だからだ。

 俺はあるものを探し求めて旅に出た。旅に出てもう20年近く彷徨っている。つまり今では完全なる根無し草であった。

 根無し草のように旅を続けていたが、いつの間にか探し求めているものが、何なのかわからなくなっている。というよりどうでも良くなっていたのだ。今となってはただ彷徨っていることだけが目的となり、着の身着のままで、移動を続ける。
 気が付けばただ呼吸をしているだけ。もちろん空腹を覚えれば何かを食べ、用を足したくなれば排出する。また睡魔が襲ってくれば、横になるという。なんとも淡々とした日々を送っていた。

 ところが驚くかもしれないが、いわゆる「ホームレス」ではない。確かに歩くことの多い貧乏旅行を繰り返しているが、それでも最低限の宿に泊まって生活する。その宿が気に入れば数か月でもいつづけるのに、気に入らなければ1泊で出ていく。

 では金は?と思われるだろう。これも意外かもしれないが、俺は資産は持っている。親から相続した広大な土地があり、そこにはビルやマンションが数多く立っていた。だからそれらの家賃収入が定期的に入るのだ。またそれらの管理は、親からの資産を折半した弟に任せているから、俺は金には困らない。キャッシュカードでいくらでも金が出せる。
 任せっきりだから、厳密には弟が少し多い目に資産を使っているかもしれないのだろう。だが管理してもらっているのだから、そのくらい俺は気にならない。ただ俺が旅を続けるときの、資金が出さえすればどうでもよいのだ。

 逆にいればそんな何不自由なく暮らせた俺が、こうして旅をしている理由なのだろう。もうそれすらどうでもよかった。おそらく不自由ないということそのものが飽きてしまって旅に出たのだから。
 もしかしたら旅に出る口実を探すために、あるものを探し求めると言ったのではないだろうか?もう覚えていないけど。だから実は旅をすることが目的で出たのかもしれない。
 そんな俺だから普通は何を見ても驚かない。俺は見ても「ふうん」で終わってしまう。それはあまりにも長い間旅をつづけたからかも知れない。もはや「驚き」という感情が萎えていたのだ。


 それがこの「久保」と書かれた文字を見たとき、俺は本当に久しぶりに驚いてしまった。だから声に出してもう一度つぶやいてみる。「久保...…」
 いったい何の言葉だろう。俺はこの久保というキーワードにやけに引っかかった。

 非常に気になった「久保」というキーワード。引っかかった理由が知りたくなり、俺はしばらくその看板の前で立ち尽くす。

 さてどのくらいたったのか、人の気配がしたかと思えば突然の大声。「おい、そこは俺の家だ。お前そこで何をしている!」
 俺は声の方を振り向くと、ひとりの男がいたが、それはどこかで見たことのある顔がある。向こうも俺が何者なのか気になったのか、お互い目を見合わせた。先に気づいたのは向こうの方「あ、兄貴?」俺はそれを聞いて目の前の男が弟だと確信。
「お、久しぶりだな。おまえこそ、なんでこんなところに住んでいるんだ?」

「え?」弟は一瞬不審そうな目で俺を見たが、すぐに表情が緩む。
「そうか、兄貴は知らんよな。俺、10年前にここに引っ越ししたことなんか」

 そもそも弟と再会したのは20年ぶりくらいだ。その間、弟が引っ越ししたことは知らないし、もしかしたら連絡があったかもしれないが、それすらはっきり覚えていない。
「じゃあ、久保って」「え?苗字だよ。それがどうしたの」

「苗字...…」あまりにもいろんなことに無関心になったためか、俺としたことが自らの苗字を忘れていたとは。
 だが旅の間、苗字を名乗ることがない。この長旅ではいつしか本名を封印していた。山田真也(やまだまや)という回文のような仮の名前を名乗っている。だから細かい証明を求めるような面倒な乗り物は使っていない。なぜならば、そういうものをいちいち問われるようなことすら、面倒だと思っていたのだろう。
 宿については、そんな厳密な証明などを求めるようなところには泊まらない。だからずっと山田真也で通してきた。だから俺はいつの間にか山田が苗字だと思い込んでしまっていたのだ。

「そうか、そうだったのか」俺はポケットからキャッシュカードを見た。たしかにこれには本名の「KUBO」と刻印をしてある。
「いちいち名前など見ないからな。そういう事か」俺はようやく納得したので、気持ちがすっきりした。だったらもうここには用はない。「じゃあ、また」と、弟と別れようとした。

「あ、兄貴、もう出ていくのか?せめて1泊したらどうだ」と当然のように俺を引き留めてくる弟。だが「いい、俺はまた旅をする。またどこかで会おう」と言ってそのまま別れた。

「さて、次はどんなキーワードで驚くのかな」俺はふと思い出した自分の苗字「久保」で、また驚くのではと思う。
 どうせこれからも「山田真也」という仮名で旅を続ける。だからこんな彷徨い続ける根無し草の生活を、また20年くらい続ければ、同じように「久保」というキーワードに驚くのかなと。





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