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有給休暇でチャレンジするクラフト

「あ、あったわ。これ、これ、クッキング温度計」海野沙羅は、夫の勝男から頼まれていたものを無事にゲットした。
「マイナス50度から300度まで対応だって。これならどんな料理でも大丈夫ね。よしこれから休みの日の度に、バンバン作ってもらおうかしら」
 沙羅は手に持った、真新しい温度計を眺めながら思わず笑みがこぼれる。

「さて、これで買い物は終り。それにしても昨夜帰って来て急に言うかな。『明日は有給休暇取る』って、もっと早く言ってくれたらどこかお出かけできたのに」
 買い物からの帰り道。オレンジのエコバックを肩にかけた沙羅は、外の空気を胸の中に吸い込みながら、頭の中で愚痴をこぼす。
「そのうえ、買い物に付き合わないくせに『温度計が欲しい』とか。ホントに。よし、ちゃんと買えたし、今日は魚を丸のままで買ったから、あとで捌いてもらおう」

ーーーーーー
 沙羅が買い物から終えて家に帰ると、勝男がテーブルで何かしていた。
「何しているの」「ああ、うん。あの温度計は?」
「ほら、買ってきたわよ」沙羅はエコバックからキッチン温度計を取りだした。

「お、これこれ。いいね。それにタイミングがバッチリなんだ。今日5月14日が温度計の日だというからさ」勝男は目を光らせながら、真新しい温度計のパッケージを取り出した。
「へえ、温度計の日。温度で『ゴ?』『ファイブ??』いや、どう考えても語呂合わせじゃないわね」
「ああ、実は華氏を考案したファーレンハイトという人の誕生日らしい。確か華氏では、羊の体温が100度なんだってさ」

「え! いや、これ、摂氏の温度計だけど」沙羅は一瞬慌てる。
「いや、華氏なんて使わないからいいよ摂氏で。よし今度肉の塊り買ってきて焼いてみよう。中まで温度が通っているかどうか見るのにこれは便利だ。 
 勝男は嬉しそうに、温度計を舐めるように見つめている。

「あの、それは良いけどね。有給休暇のこともっと早く行ってほしかったわ。昨夜言われたんじゃ何もできない!」
 沙羅のほうに視線を移した勝男。申し訳なさそうに何度も頭を下げる。「いや悪かった。その実は昨日の午後、急に総務に呼び出されてさ。聞いたら昨年度ほとんど有給が消化できなかったって」
「うんそうね。でも余った有給は会社で買い取ってもらったんでしょ」
 
「ああ、でもあれ、有給休暇の買取って本当はダメらしいんだって」
「へえぇ」
「そしたら総務担当がさ『海野さんは、本当に消化できるかどうかわからないので、今年度は毎月必ず1日有休を消費してください。もう4月終わったから、5月からは必ず』って言われてさ」
 勝男と沙羅の視線が一瞬目が合う。
 だが勝男はすぐに視線を下に落とし「仕方ないから『じゃあ明日取ります』っていっちゃった。ちょうど今閑散期で取りやすかったんだ。ホント悪かったなあ」
 勝男は頭の後ろに手を置いて申し訳なさそうに言い訳した。

「そういうことね。じゃあ来月からはちゃんと予定を決めようね」
 沙羅の一言に何度も勝男は頷いた。

「あ、そうそう。今日魚買ってきたから捌いてね」そのまま沙羅はキッチンに行こうとするが、勝男の次の言葉で立ち止まる。
「ああ、わかった。ちょっと待ってくれ。これ完成させてから」
 勝男は何かを思い出したように椅子に座り直す。テーブルの上には絵が描かれた紙とハサミ糊が置いている。振り返った沙羅はテーブル上のものが気になった。
「ねえ、さっきから何してんの。紙とハサミ出してさ」
 沙羅は不審そうな眼で勝男を見た。だが勝男は動じることなく笑顔で「ああ、ペーパークラフトやってんだ」「ペーパークラフト?」
「そう、紙で工作するの」
「またなんで急に?」
 沙羅は首をかしげて不思議そう。

「いや、今日急に有給休暇取っただろう。さて一日何しようかなんて考えてさ。テレビやネットで過ごしても良かったけど、ちょっと新しいこと始めようと思って......」
「で、絵を印刷したの」「そう、ちゃんと専用のものが無料でダウンロードできるんだ。これだったら余計なお金もかからないしね」勝男は口を緩めて白い歯を見せる。

「ふうん、でさ、何作るの」「魚」
「あなたホント魚好きね......」沙羅の表情が明らかに呆れていた。ところが勝男がここでムキになる。
「何、魚はいいじゃないか! 泳いでいる姿もかわいくて癒されるし、食べてもおいしい。魚は最高だよ」

「で、これが魚のクラフト」
「そう」勝男はダウンロードして紙に印刷したクラフトペーパーを沙羅に見せた。

イシダイ

「このイシダイ結構リアリティな写真。ていうかまるで干物じゃん」沙羅は思わず笑いをこらえる。

「まあ干物と言われたらそうだな。魚を紙みたいに平べったく二次元にするのが干物だからさ。でもこっちは違うぞ。逆に三次元空間に戻してやるんだ」
 勝男は、そう言ってハサミで魚の絵。そしてのりしろの部分を切り離していく。
「本当は、子ども用のものらしいが、まあいいだろう。大の大人が持て余した有給休暇を使ってこれで遊んでも。しかし糊とかの工作って、いつ以来だ? 中学生のときも、したかどうか覚えてない」

「子どもかぁ......」
 この夫婦には長く子どもが出来ない。不妊治療の話もあるが、沙羅も勝男もそれは拒否。だから子供の話題になると沙羅は一瞬暗くなる。だが勝男はそれよりも、目の前のクラフトづくりに必死。

「それにしても、うーん」 
 どうもうまくいかない。これは子供の話題とは無関係。普段は営業の勝男はパソコン作業しかしていない。そして指が太いからだろうか?意外に手先は不器用なのだ。

「魚を捌くようにはいかないわね」「ああ、この印刷した紙が悪いのかなぁ」ついに勝男はクラフトから手を放し、腕を組んでため息をつく。

「そうよ、そういうものってもっと分厚い紙でやるんじゃないの」
「わかった。そしたら今度の休みに、改めてやろう」と諦めた勝男。
「じゃあ魚捌く」と言ってテーブルから立ち上がると、そのまま沙羅の持っていたオレンジのエコバックを受け取ってキッチンに入って行く。

「これ、そんなに難しいかしら?」残された沙羅は、勝男が放置したペーパークラフトを眺めた。

ーーーーーー

「よし、今日はいい魚買ってきてくれたな。まだ内臓が新鮮だ。3枚におろしたし。まず身は造りだろう。骨とアラは出汁を取ったらおいしいぞ。せっかくだから内臓でも何か作れないかなぁ」
 嬉しそうにキッチンから出てくる勝男。だがもっと嬉しそうな沙羅の笑顔がそこにある。

「ほら、見て!」沙羅が完成したイシダイのペーパークラフトを自慢そうに見せる。
「お、お前のほうが器用だ。そしたらさ、頼みがあるんだ。実はトビウオも作って欲しい。今からダウンロードするからお願いできないか。代わりに夕飯は俺作るわ。

「いいわよ。これ楽勝だし、何より楽しいわ」
 いつしか沙羅のほうが、有休を過ごすための楽しみに目覚めてしまったのだった。



参考

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シリーズ 日々掌編短編小説 479/1000

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