春一番を感じつつ挽回できた失敗

「今日は暖かい。南からの風が強いということは春一番か」
 海野勝男は休みの日を利用して、近所の河川敷に妻・沙羅を引き連れて散歩に来ていた。この日はバレンタインデー。だが管理職のビジネスマンとして日々重要な仕事を続けている勝男は、独身の若者たちのようにチョコレートの受け渡しとは無関係。
 子宝には縁がないが、夫婦水入らずで花見の様にビニールシートを持参。沙羅の手作りによる弁当を食べた。その後は河川敷の土手で風は強いものの、春先の温かい日差しを浴びながらゆったりと過ごしている。
「この緩い時間が何とも言えないな」勝男は仰向けになって、空を見ながらつぶやいた。

 日曜日の午後、住宅地に面した河川敷の土手の上では、近所の人たちだろうか? 結構な人数の人々が思い思いの格好でを散歩をしている。子連れから年配者まで年齢もまちまちだ。またジョギング姿の人や犬と一緒に行動している人の姿も見られた。

「春一番ってことは、いよいよ春が本格的に近づいたのね」
「うん、明日2月15日は、確かは春一番名付けの日というらしい」勝男は河川敷の雄大な流れに視線を置きながら、得意げに答えていく。

「へえ、相変わらずの物知り」「ふん、大したこと無いよ。だけど春一番って本当は、俺にとっては黒歴史」先ほどの得意げな表情とは一転して表情が固い。

 今日は風が強いからだろうか? 凧上げを楽しむ親子の姿まであった。
 親のほうは釣りの竿とリールを持っていて、その先には、針の代わりに凧が引っ掛けられている。糸の長さをリールで巻き上げたり緩めたりを繰り返しながら、凧を空に飛ばそうとしていた。
 子供はその成り行きを見ながら、楽しそうにジャンプして待ちわびている。

「フフフフ、そうそうあのときも南からの風が強い2月の半ばだったわね」
「忘れもしないあの日。南からの暖かい風が強い春一番の日だ。そのときはそんなの感じる余裕、全くなかったな」

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「担当が粗相をしたと。申し訳ございません!」これは勝男が、管理職になったばかりこと。部下の不注意で、重要顧客を怒らせる失態を起こしてしまった。またそのタイミングが悪い。
 営業課長として就任直後、これから担当する取引先にあいさつ回りをする矢先に起きた事件。今まで未担当の顧客だけに、勝男にとって事実上初対面の相手なのだ。
 「まずは相手の心を穏やかにしなければ」と勝男は考えた。
「営業畑一筋で、管理職にまで昇りつめた俺の手腕が問われるとき。子供のときにはカラカイになったときに、見事に笑いに変えた俺の名前。今こそこれを使うしかない」

 そして勝男は最初の謝罪の後、自己紹介で笑いを取る作戦にでた。
「私、海野勝男。一文字違いで日曜夕方の顔です」と、少し冗談めかして言った。だがそれは相手に不快感を増幅させてしまう。

 痛恨のミスだった。火に油を注ぐというか、瞬間にマイナス冷凍の世界を構築してしまう。顔色も表情も変えない顧客の担当者は、ただ銀縁の眼鏡を無意識に直しただけ。その張り詰めた冷凍具合をさらにパワーアップさせるのに十分だ。

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「ああ、今思い出してもフラッシュバックだ!」勝男はトラウマの瞬間を思い出し、両手を頭に置き顔をしかめる。
「大丈夫、もう過去のことだから、それは忘れて。それにあれから持ちなおしたじゃない」

「あ、ああ。そうあの後必死に謝った。もう大変だったよ。慌てて部長に連絡したらすぐに飛んできてくれてさ。でもさすがは部長だ。ようやく顧客担当の表情が和らいで、あとは誠意だけ。どうにかことなきを得た」
 いつしか両手に汗をかいている勝男は、トラウマから解放された模様。表情が緩やかに戻った。
「『お前、まだ成り立てだろ。こういうときは先に相談しろよ!』って後で部長にずいぶん怒られたどな」

「いまじゃ、その顧客とすごくいい関係なんでしょ」「あ、ああ。接待のときはいつもそのときを突っ込まれるが、もう笑い話。担当者とは懇意になれたし、取引もバッチしだ。雨降って地固まるだな」勝男はようやく笑顔が完全に戻った。

「失敗は成功の母ね」「はは、だけにハハハハァだ!」
 ダジャレ言って笑う勝男は、先ほどの凧揚げ親子に注目する。凧はさっきまで大空を舞っていたが、どうやら近くの木の枝に引っかかってしまったようだ。
 慌てて親がリールを巻きながら枝の前まで来て、どうにか枝に引っかかった蛸を取ろうとするがうまくいかない様子。

「おい、あれ見ろよ。さっきから気になってたけど、あれじゃまるで釣りだな。海底の何かに引っかかったときには、強引に引き上げたらエサどころかハリもオモリも全部失って糸だけになる。あの凧もひょっとしたらそうなるかな」

 沙羅はその様子を見る。当の親子は困っている様子もなく、むしろ楽しそう。あらゆる方向で引っ張りながら、凧を取る方法を模索していた。

「そうだ。あれ見たら行きたくなった。久しぶりに海釣りに行こうか」と勝男の元気な声。
「いいわね。あ、そうそう思い出した。実は、武ちゃんいたでしょ」
「うん? ああ、半年前に脱サラして伊豆半島に移住したんだっけ」
「そう。その武ちゃんが最近釣り船ができるゲストハウスを始めたって書き込み見たの。伊豆半島の先端から船を出すんだって」

「何、釣り船のゲストハウス! 伊豆半島の先端と言えば、沖の南方70キロ先にある銭洲のことじゃないのか?」思わず勝男の声が大きくなる。
「ゼニス? ああ、そこまでは」
「銭洲ならば... ... そこは釣り人のメッカだ。5キロクラスの大物が十分期待できる」勝男の目に輝きが出てきた。

「あ、いいわね。釣りあげた魚を私が捌くから、おいしく食べましょ」
「おお、釣り上げた魚は刺身でも塩焼きでも、あと煮つけ。何しても旨い。そう、うゎあ急に釣りしたくなった」

「よし、じゃあ、さっそく武ちゃんに予約する?」沙羅も勝男に合わせるようにテンションが上っていく。
「うん、そしたら春が来て桜が咲いた後くらいがいい。GWくらいかな。ちょっと行ってみようか」
 勝男の一言に大きく頷く沙羅であった。

 ちなみに先ほど引っかかった凧は、無事に取れたらしく、再び大空を舞っている。


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シリーズ 日々掌編短編小説 391

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