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パンダと温泉の外側で 6.17

「御挨拶だけして、宿泊は隣町でもよかったんじゃないか」ここは和歌山県の紀伊半島。車を運転しているのは海野勝男である。この日、妻・沙羅のふるさと和歌山県の紀伊田辺に向かう最中であった。
「その話、私が一番嫌いって知っているわよね。うちの実家は狭いから、兄が実家に泊まる。だから私たちは田辺のホテル予約したでしょ」沙羅は助手席で不機嫌な表情になった。「いや、わかってる。けどさ。やっぱり南紀白浜はいいと思うんだどなあ」

「だから嫌がっているのに何。白浜は町でその北にある紀伊田辺は市なのよ。それなのになんであっちが有名なの。空港まであって。もう悔しい!」 
 このような感情は沙羅独自の物か、それとも街の雰囲気なのだろうか? 勝男にはわからない。だが少なくとも今から会いに行く沙羅の両親や兄の家族たちが南紀白浜を毛嫌っていなかった。何しろ一緒に白浜までパンダを見に行ったり温泉に行ったりするくらいである。

「そんなこと言うなよ。その白浜に空港があるから東京から飛行機でサクッとこれたんじゃないか。新幹線だったら何、新大阪で乗り換えだろ。そこからまた遠い」
 今回は南紀白浜空港でレンタカーを借りていた勝男。ちょうど目の前に白浜の有名なスポットが見えてきた。「おい、あれ有名な円月島だよな」「もう良いわよ! 紀伊田辺だって素敵な海岸あるのに」沙羅は南紀白浜を本当に嫌っている。

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 車は南紀白浜の観光スポットをすべて飛ばして北上した。海沿いに通じる県道33号線。やがてナビによれば田辺市に入った模様。
「よし、田辺に来た!」沙羅は途端に元気になる。「あ、次の信号左に曲がって」「え、寄り道か」「うん、お願いちょっと寄り道して」
 勝男はようやく機嫌を良くした沙羅が、再び悪くならないように言われるままに車を左折。「これは小さな半島だな」「そう鳥巣半島。ここにはまだ一緒に行ったことなかったでしょ」「お、おう、いつもは素通りして天神崎の方向に行くのに、今日は何でまた?」

「うーん」沙羅は意味深な表情をする。勝男はそれ以上突っ込まず車のハンドルを握りしめた。

 車はしばらく右側に海ををみながら突き進む。「次、左」沙羅の指示通りに進むとすぐに反対側の海が見えてきた。
「あ、ここよ。ここに来たかったの」突然うれしそうな沙羅の声。
「来たかったのって、車止めるところがない」「え、どうしよう」勝男はブレーキを踏んだ。そしていったん車を止めると。「よし探してくるから先に降りたら。君が来たかったんだろ」勝男はこう言って沙羅を下ろすと、駐車場を探しにひとり車を走らせた。

ーーーーーー

 ひとり残された沙羅は、この場所から見える海を静かに眺める。道のすぐ前が海岸。その先は岩場のようにになっているが、まっすぐに伸びた筋が何本もあつた。そこに水が溜まっている。
 沙羅は何か懐かしいひとときを噛みしめるように静かに海に視線を、送ったまま。
「いや、親水公園までいかないと駐車するところなかった」20分くらいしてからようやく沙羅の前に現れた勝男。
「あ、ごめん。車のこと考えてなかった」「いいよ。路駐ではなくて駐車場に置いたから安心して過ごせる。勝男はそういうと沙羅の隣に座り、海を眺めた。
「変わった景観だな」「一応ここ天然記念物よ」「え、田辺にも天然記念物が!」驚く勝男。沙羅は小さくうなづく。

「ここは、鳥巣半島の泥岩岩脈というところで、あの岩は泥岩(でいがん)というものなの」沙羅が指したものを眺める勝男。かすかにその泥岩に衝突した波の音が聞こえる。
「へえ、それ待っている間、調べてたのか」勝男の問いに沙羅は首を横に振る。「ちがう、昔ある人に教えてもらったんだ」ここでいつもと違い、沙羅は少女のような表情になっている。「昔の人......」勝男は沙羅の意味深な言葉に頭をひねって考えた。

「あれからだから、私も随分久しぶりに来たの」「そうか、ここには何かあったのか」「うん、でもその前に、私が今からいうこと怒らないでね」沙羅の口調がやはりいつもと違う。明らかに彼女の心が遥か過去にタイムトリップしているかのようだ。

「な、なに。気になるがわかった。昔付き合っていた男の話か」
 沙羅は小さくうなづいた。
「実は私が高校のころ、付き合っていた人がいたの。その人とここによく来たわ。物知りで、ここが天然記念物の話も教えてくれたの」
「ふん、まあ誰にだってそんなことはあるだろう」勝男は遠くに視線を送る。沖合には小さな小島が見えた。
「話を中断して悪いがあの小島は何だ」「あれは神島。島の中に神社があるの。道の反対側に遥拝所があるわ。 あの島は許可がないといけなくて、いつもあの人と見ていたわ」沙羅の細い目が小さな神島を懐かしそうに見つめている。

「で、あそこ見て」沙羅は神島から見て左側を指した。勝男が見ると、大きなホテルが見渡せる。「あれは有名なバブル時代の高級ホテル。白浜方向だな」
 沙羅は小さくうなづく。「そう、その彼は白浜町出身。ひとつ年上て、高校のときにバイト先で知り合った。それでいつもここまで2台の自転車でよく遊びに行ったの」「そうか自転車だったら駐車気にせずに済む」勝男は腕を組んだ。
「あ、ごめん」「いい。続きを」

「でも、一年くらいかなあ。ある時突然別れたの」「そうか」「好きな人ができたって。それも、相手は地元南紀白浜の大型ホテルの経営者の娘だって。やっぱり金かよって思ったわ」

「え、あれか?」勝男はひときわ目立つホテルを指さす。
「違う。あの川久じゃない。あそこの反対側。白良浜のほうにあるわ」

「そうか初めて聞く話だな」「ごめんなさい。隠すつもりはなかったけど話すタイミングもなくて。あの別れ話のとき以来、久しぶりに来たの。私にとっては黒歴史。だから言いたくもなかったのかな」沙羅の表情は徐々に元に戻る。意識が現代に戻ったようだ。

「それがこのタイミングでようやく話せたと」「そう、さっき田辺に入ったら急に懐かしくなって、ようやく全てを精算できたみたい」そう言って沙羅は、勝男の背中に近づき、そのまま静かに抱き着いた。
「わかった。俺に話してくれてありがとう。でも過去のことは、まう終わり。そうだ右側いい風景じゃないか」
 勝男が指さした右手を見る。「あっちは田辺市街よ。珍しいわね。いつも白浜という人がどうしたの?」
「うん、いや俺は別に田辺が嫌いだとは言ってないぞ。俺は海の魚が好き。おそらく観光地の白浜より田辺の地元の店のほうが安いんだ」
「私もそう思う。絶対よ」そう言ってふたりは、同時に笑う。

「よし、今日はご実家でごちそうになる。だから明日のお昼に田辺の魚料理の店に行こう」「そうね。行きましょう」
 そういいながら、今しばらく海を隔てて見える田辺市街を眺めるふたりであった。




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シリーズ 日々掌編短編小説 512/1000

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