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とある教授が語る恋の思い出

「先生、本日は素敵な講義ありがとうございます」特別講義が終わった大学教授の市川晃に、出席者から盛大なる拍手があった。司会を行ったのは助手の温水明菜。
 市川はこの日ある仏教寺院の境内にあった、施設内での特別講義である。歴史学者で専門はクメール文化。つまりカンボジアの歴史専門家だ。
 特にアンコールワットをはじめとしたアンコール遺跡を積極的に調査・研究をしている。頻繁に現地に渡航。学生を引率したり、長期間現地に出向いたりして研究を続けていた。同様にクメール文化の色が残っている隣国のタイやラオスにも足を運ぶ。

「来週の土曜日もよろしくお願いします」温水は少し薄くなった髪に右手を当てて、髪を整えている市川と一緒に寺を出た。そのまま駐車場に向かう。駅まで温水が市川を送るために車を出す。
「君、正直なところ今日の内容はどうだった」「いえ、今回もわかりやすい先生のたとえ。皆さんときおり笑いながらも、真面目に講義を聞いておられました」
「そうか。いつも思うが、本当に僕の講義がみんなの役に立っているのか不安になることがあるんだ。いや、いつもこんなこと聞いて悪いな。君なら冷静に判断してくれると思うから」

「先生ほどの方が、とんでもない」運転をしながら謙遜する温水。
「いやいや、前にも言った通り僕は優秀ではなかった。何しろ2浪してようやく大学に入れたほどだよ。このときに、同級生から2年遅れたと思ったから、就職ではハンデがあると思って学者を目指そうと願った。だが願ったからと言って簡単にできるものではなかったけどな」
「ご謙遜を。今やクメール文化では日本有数の研究家でもあられる先生が、若き時代はパーフェクトではないという。そんな人生を聞くだけで、親近感がわきますわ」温水がさりげなく市川をほめるので、市川はついつい饒舌になる。

「いやあ君はいつもいいこと言うねえ。でも、そんな落ちこぼれ学生だった僕を救ってくれたのが彼女だ」「彼女? それって先生の恋バナですね。差し支えなければ、お話をお伺いしたいですわ」ハンドルを握る温水を一瞬横目で見た市川は微笑んだ。「大した話ではないがな」
 今度は首を180度回転させ車窓から見える風景を眺める。そして20年前のまだ自らが学生だった時代に意識が飛んでいった。

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「市川さん、わざわざグルメがメインのツアーに」
「山内さん、いいんですよ。僕は長く浪人生活を送っていたので、ようやく解放された今こそ、海外旅行で羽を伸ばしたかったんです」

 彼女とはインターネットで知り合った。大学に入って早々、東南アジア好きが集まったネットの同好会を見つける。元々世界史が好きだったからと、歴史が学べる学科に入って研究対象としたのがクメール文化。情報収集のためにと、市川は同好会に入った。入って2か月後の秋にオフ会が行われるからとそれに参加。

 大学生になりたてとはいえ、すでに2浪している。成人式を終わってからの大学入学。だからお酒も提供されるオフ会にも堂々と行けたのだ。
 場所はとある所にあるバーを貸し切って行われた。くの字に曲がったカウンター席が10ほど。その横に小さな2人掛けのテーブルが2つある程度の小さな店。この日のオフ会メンバーは10人集まった。そしてその中にいた3つ年上の女性・山内さんは、この店によく来るという。彼女が店のマスターと交渉し、そして店を貸し切ってのオフ会となった。

 カウンターの奥の端に座った市川の隣に山内が座る。顔を見たときに「かわいい」と思った市川。山内のほうもまんざらではなく、自然と会話が弾む。「私は今度の冬に、タイに行ってきます。このお店のマスターが主催するグルメツアーです」
「タイのどこに行くのですか?」「スコータイです」「スコータイかあ」市川はグラスに入っていたジンライムを口にゆっくりと含める。
「あ、それはまだ募集ていているのですか?」市川の質問に嬉しそうな眼をする山内。
「多分、マスターに聞いてみます。 ねえマスター! 新規でツアー希望者が見つかりましたよ!」


「はい、お疲れ様です。スコータイ遺跡に到着しました」
 冬、スコータイ遺跡とタイグルメを味わうバー主催のツアーがスタートした。このツアーの参加者は山内さんといずれも40歳代のバーのマスター夫妻。そのほか、バーの常連客が3人で全員女性の仲良し30歳台である。バーとの接点がほとんどなかったのは僕だけで、メンバー最年少だった。

 ここまでの行程は、日本を旅たち初日に到着したのが首都のバンコク。そこで1泊し、バンコク市内を観光してから夕方の国内線でスコータイ近郊のピサヌローク空港に到着した。そこから車で1時間ほど走ればスコータイの街中に入る。
 そして次の日がスコータイ遺跡公園の見学となった。ちなみにこのツアーの途中で味わう食事は大手旅行会社のツアーと違い、バーのマスター夫妻があらかじめセレクトした店ばかり。
 ふたりがリサーチして案内してくれた店は、夜はタイの雰囲気が出た高級な雰囲気。そして提供される料理もゴージャスな盛り付けであった。味は申し分ない旨さ。
 そして朝はより庶民的な人気の屋台に行く。地元の人に混じって食べる屋台料理は、夜のディナーとはまた違った魅力的な味わい。
 もちろん当時の市川は未体験ゾーン。すべてが新鮮に映った。「タイ料理。もっと辛いと思っていたが、それほどでもなさそうだ」

 スコータイ遺跡に到着した一行。公園内は広いの出入り口で自転車をレンタルする。その後とりあえず公園の中心にあるワット・マハータートに向かった。歴代タイの王朝で最も古い遺跡と言われているのがスコータイである。それでも大きな仏像が残っていて、それを眺めているだけでも圧巻。

 しかし急激に温度が上昇していた。曇ってはいたが、水を飲むためにすぐに汗ばんでくる。だが700年ほどの時空を旅した仏像たちは、何事もなかったかのように静かにたたずんでいた。

スコータイ

 市川は、この遺跡群をデジカメで押さえていく。彼が参加したツアーは西暦2000年。当時まだスマホが登場するはるか前の話だ。ツイッターなども存在していない。

「せっかくなので2時間ほど公園内で自由行動にしましょう」とマスター。マスター夫婦と女性3人の仲良しグループは、各々自転車を漕ぎだし、すぐにその場を去って行った。

 残されたのは市川と山内の若いふたりだけ。自然とデートが始まる。
「市川さん、私ぜひ見たいところがあるんです」「あ、はい。僕はついていきます」麦わら帽子姿の山内は口を緩め、白い歯を見せながら嬉しそうにそのほうに向かった。

「ワット・シーチュム。ここよ」山内は自転車を止めた。そこは四角い大きな箱のようになっている。そして中央に隙間があり、その奥に大きな仏像が鎮座していた。
「中にはいれるのかなぁ」「入れるわよ。行きましょ」

 入り口にはゲートがあったが開いている。山内に誘われるように市川は中に入った。「こ、これは!」市川は思わず息をのむ。



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 スコータイ遺跡公園にはこのほかにも多くの仏像が残ている。なのにここは別格だと思った。元々は天井もあった仏塔だったのだろう。四方が壁の様に覆われ、閉ざされた空間。そこに何事もなく鎮座する巨大仏の姿に見とれてしまう。
 声を出せはそれが壁に反射されてひびきわたり、不思議さが倍増。この中だけは気温も少し低く、過ごしやすい気がした。独特の『氣』のようなものが漂っているようにも感じる。市川は当然何度もデジカメからシャッターを押した。

「大学では歴史の研究しているんですよね。市川さん参考になりましたか?」「もちろんです。こんな本物見せられたら、普段の講義など子供だましだ」大げさな市川の言葉に思わず笑う山内。
「キャハハ! まあ、そんな。教授に怒られませんか?」「ここにいないから、大丈夫でしょう」と言って市川は苦笑い。
 しばらくふたりはこの神秘的な仏像を静かに眺めた。そして無意識のうちにふたりは手をつないだ。
 結果この旅行で意気投合した山内さんとは、自然に交際に発展していく。

 それから僕は真剣に研究に没頭した。この時見たのはスコータイ遺跡で、メインの研究対象であるクメールとは直接関係がない。でも参考になったし何よりも本物のすごさに感動した。以降できるだけ現地に渡航して本物を見るべきだと確信したきっかけの旅。
 すべては彼女として付き合っていた山内さんをがっかりさせないため。だがそんな恋愛も2年ほどで自然に終了した。
 理由は山内さんが「留学する」と言ってヨーロッパに行ってしまったから。

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 市川の意識は助手の温水が運転する車の中に戻る。「先生、つまり遠距離恋愛が原因で別れたんですか?」
「最初は連絡取り合ったけど、お互い忙しくなって、時差もあるしね」感情の無い、棒読み口調で答える市川。
「そうだったんですか。先生、過去の素晴らしい恋の思い出話ありがとうございます」


 ここで市川は軽く咳払い。「ところがだ。それから10年後、偶然に再会したんだよ」「え、再会?」
 驚きのあまり市川を見る温水。市川は静かに語りだす。
ーーー 
 あの日僕がたまたま、あのバーの近くに用事があった。
「あっ、この店まだ続いている」と思って行ってみる。ドアを開けると目を疑った。なぜかそこに彼女が戻ってきていてカウンター席にひとりで座っている。僕は驚いたよ。あれから10年。多少の違いはあれど、すぐに彼女だとわかった。
「え、もしかして山内さん」「え! い、市川さん。本当ですか!」
 彼女も僕の姿を見て驚いている。そういえばカウンター越しのマスターが嬉しそうだったなあ。
ーーー
「2年前に日本に戻ってきたという彼女。そこで、再会を祝いお互い昔話で盛り上がったら、そのまま寄りを戻せたんだ。その3年後に結婚。それが今の妻・遥なんだ」

「なんと! 赤い糸はずっとつながってたんですね」温水は思わず声が裏返る。「そういうことだな。お互い独身だったという偶然もあったけど」
 気が付けば車は駅前に来ていた。入り口で止めると市川はドアを開ける。「あ、じゃあ来週宜しくね」「承知しました」

 こうして市川を駅で降ろた温水。しばらくの間、微妙に複雑な気持ちが続くのだった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 434/1000

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