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無月の譜。見えない名月のしたで。

私の祖父は囲碁をたしなむひとだった。
座敷で祖父が友人と一局対戦しているときは、祖母をはじめ子供の私もそぉっと歩き、思考の邪魔にならないよう、家族みながぴりぴりしたものだ。
その立派な足付碁盤と白黒の碁石は祖父が亡くなり、相次いで父や祖母も亡くなりどこかにいってしまった。昭和時代(大正時代かも)の工芸品はひとつひとつ手づくりで職人の技量と手間がかかった逸品だった。つやつやの黒い石と白い石は子供のおはじきにも似て、じゃらじゃらさせて遊びたいのだが、さわるだけでもひどく叱られた記憶が残っている。

小説「無月の譜」を読みながら、祖父の囲碁盤を思いだした。もし残存していたならそれなりの価値のあるものだったかもしれない。

将棋の棋士をめざした青年が、駒師だった亡き大叔父の足跡をたどり、幻の駒「無月」を探し訊ねる物語だ。

あらすじはabraxasさんnoteに詳しい ↓ 興味あるひとはどうぞ。

前半は、主人公は大叔父にゆかりのあるひとを、順に訪ねていく。人と人とのご縁が繋がり、彼のひととなりが明らかになるにつけ、いいひとだったのにな、気の毒に、惜しかったな、の気持ちでいっぱいになってしまう。
一方、後半はその芸術品ともいえる駒のありかを探し、シンガポール、マレーシアへと積極的に飛ぶ。この辺りは私のナワバリだから、ナザロ教会やバトゥ・パハやツインタワーもサテもナシゴレンも親しみがわき、一気に数時間も読みふけってしまった。暑苦しい亜熱帯のヤシ畑を車窓に見ながら長距離バスに揺られ目的地につくなんて、自分ごとのようで楽しかった。
アメリカNYでは、ゲームの勝敗が大事な西洋人デイヴィッドと、駒にまで気を配る東洋人チャンとの対比が興味深い。“美しい木片をつまんで動かしてほしいの。画面に映る映像やプラスチックをぴこぴこさせるだけではなく…”の言葉は、単なるゲームではなく将棋道や駒の霊力に敬意をしめすものだろう。

さて、おしまいに、主人公はどうしたか。それは読書の醍醐味として伏せておく。


話は変わるが、昨夜は2022年八月の名月だった。
私はここ20数年、相方の母国の習わしで、中秋の名月は毎年家族そろって「月餅」を切り分け、家庭円満や一族繁栄を願うのが通年だった。コロナ禍で3年間弱里帰りができず、来月ようやく相方の親族とともに中秋を祝うことができる。
名月は見えなくとも、あの空の下にちゃんとある。
家族と離ればなれでも、あの空の下にきっといる。
とわかっていればそれだけで尊い。なるほど、無月とは趣のある銘であることよ。

できれば、中秋節には夜空に明るく輝く満月を拝みたいが、雲に隠れて月が見えなかったとしても「それもまた一局」である。


●2000年「花腐し」松浦 寿輝 芥川賞
偶然にも松浦さんは芥川賞作家だったため、芥川賞ぜんぶ読むリストから[花腐し]を除外する

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