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「嘘みたいだろ?最高の遺書を書くために生きているんだぜ」って話

タイトルの通り、遺書の話をします。

人生最後に書く大切な人ひとりひとりに当てた文章を、僕は最高のものにしたいんだ、聞いてくれ!

という独りよがりな話です。

最初の3章は前置きです。そもそも僕にとって書くことがどんなものかを書きました。それ以降から遺書について語り尽くします。

暗い内容ではなく温かい内容になっているので、安心して先へお進みください笑 

※この記事は、2020.7.20の内容を味は残しつつ、読みやすく修正したものです。

僕にとって書くとは、続けてしまえること

中学の時、心療内科の先生に日記を書くのを勧められことから、書きたいことを書きたいように書くことを始めました。

同じ時期に推理小説にハマり、自分でも推理小説を書こうとノートにあれこれ思いつきでプロットを書き込んでいました。

以降数年、とにかくプロットだけが増え、学校のお知らせプリントの裏面にぎっしり汚い字を詰めたものが部屋に散乱していました。結局、一つショートショートみたいな作品ができただけだったのが懐かしい。

あれから時は流れ、二十歳になったわけですが、僕の文章はまだお世辞にもうまいとは言えません。優しい知り合いかすごく優しい誰か以外には読まれないだろうというレベル。

(21歳になった今はそれなりに成長しているつもり)。

ただ、それでも僕は折れずに書き続けることができます。

僕にとって書くことは、中学の時から今日まで続けてしまえたことであり、30年後もニヤニヤしながら続けていられるんだろうと思えること。

もちろん、今の自分の書く力の無さをひしひしと感じることはしょっちゅうあります。最近noteを始めた友人たちの文章に打ちのめされることもしばしば。

でも、少しずつ書ける量が増えているのも、読んで感想をもらうことが増えているのも事実です。

少しずつできることは増えているという事実と、30年後もニヤニヤ書き続けているんだろうなという妙にリアルな感覚があるので、今下手かどうかで書くのをやめることはありません。

そういうもんです。

僕のわがまま

書くことは、僕にとってはわがままです。好きなことをして自分を表現したり、シェアしたいことを説明したりするのが最高に楽しいのです。

「誰かの心に届け〜」と思いながら投稿ボタンを押すのが嬉しくてたまりません。

だけれど、文章はまだ拙い。
それでも、受け取ってくれる人が少なからずいて、感想をくれる人もいる。

だからせめて誠実に、読んだ人の中にある優しさや楽しさや賢さの芽に水を与えられるようにと願いながら書いています。

拙くても、誰かの心にある優しさを刺激したり笑いを誘ったりする文章があることを僕は知っています。

だから、今文章が拙いことで人に見せるのをやめる必要はないと思っています。きっとどこかに受け取ってくれる人がいると思って書き続けたらいいと思います。

書き続ければ刃は研がれていくはずです。

どうにか届くように届くようにと綴る

いつもnoteを書いた後で「誰かの心に届け〜、届け〜」「誰かの心に響け〜、響け〜」と念じながら投稿しています。

誰か一人でも読んでよかったと思ってくれたら嬉しいし、直接感想をもらえたりなんかしたら成仏ものです。

はい!
前置きおしまい!!

ここからが本筋で、遺書について書いていきます。

遺書は、大切な人たちに向けて書く最後の文章。人生でたった一度しか書くことができず、フィードバックが確実にいただけない手紙です。

そんな遺書について、書くことだけは続けられる僕はどう考え、そしてどんな遺書を残したいのかなど、自分の美学みたいなのを語ってみようかと思います。

それでは行ってみよう!

弔辞に興味はない!!

あなたの葬式で、いったい誰が、どんな弔辞を読むのだろうか?

自己啓発本で、よくこのような問いかけを見かけます。少なくとも『7つの習慣』にあったことは覚えています。

でも、正直僕にはこの問いはあまり響いて来ませんでした。自分の葬式にだれがやってくるとか、そこでどんな弔辞を読むとか、そんなことは気にしても仕方がないと思えるし、死後にまで誰かに何かを期待したりはしていないからです。

高校生の頃くらいから、どんなに考えてみても、この問いかけに自分が納得するような回答を見いだすことはできませんでした。そもそもこの問い自体に違和感を持っていたからです。

今の僕からすれば、これは、問いが逆に思えます。その方がしっくりくる、ということです。未来の僕がどう思うかはわかりませんけど。

死後に自分が何を受け取れるか想像するのは、今の僕の感覚では美しくないと感じてしまいます。自分の美学(のようなもの)として、与える人として死にたいのです。最後まで表現者側でありたいというのもあるかもしれません。

とすると、考えるべきは弔辞ではなく遺書の方なんじゃないか?

すっごく遺書を書きたい

不思議な感覚、なのかもしれませんが、僕は中学生くらいの頃から遺書に惹かれてきました。僕の中で「遺書」は「遺書!!」と書いた方がしっくりくるような代物です。それくらい興奮します。

だって、自分の大切な人への人生最後の贈り物ですよ?その人の死ぬまでにあった出来事とか想いが凝縮されたもんだと思うんです。興奮しませんか?

ちょっと落ち着きます。

僕には、あまり物や地位への執着がありません。大学も納得してならやめてもいいかなと思ってます。ほしいものはぼんやりとしていて、体を動かすのが億劫です。

自分がこの社会で生きていくにはあまりに考えが甘くて、脆いこともわかっています。あまりに不器用なことも。大学生になっても、バイトの一つもろくにできやしないし、気分にムラがあって、いろんなことを絶好のタイミングでよく台無しにしてきました。

本を読んだり、文章を書いたりするのは心を落ち着ける行為だし、楽しいものなのですが、本当には自分が何を書きたいのかずっと分からずにいました。

直感的に心を許せると分かる人達との関係性を育むことも大好きで大切な時間だけれど、同時に時折そのことについて虚無感を感じたりもしていました。

時々どうしようもなく胸が苦しくなるんです。

でも、その苦しさは捉えてる世界が狭いからなんじゃないか。もっと長期的に、視野を広げたほうが充実できるんじゃないか。こう考えました。

どんな遺書を残して死ぬかを軸に生き方を見つめると、僕はすごく生きやすくなったんです。

本のような遺書を書きたい

どんな遺書を残すか考えるとワクワクします。

だって、遺言ほど人の心をつかむ形態のメッセージがあるでしょうか?

遺言と言ったって財産分与の話を書くわけじゃないですよ。そんな財産は今の所ないですし。

そうではなく、いわば人生最後の手紙としての遺書です。若くして死ぬ父がまだ幼い息子に残す手紙やビデオレターみたいなイメージです。

大切な人からの人生最後の贈り物。

話し手や書き手がプロでなくても、最後のメッセージは必ず人の心に届きます。一生に渡って何度も読んでもらえるかもしれません。そんな幸せなことってあるでしょうか?

あなたが生きている間にもっとも大切にしてきた人たちが、心から受け取ろうとしてくれる一世一代のメッセージです。

あなたは、どんな最後のメッセージを残して死にたいですか?

僕は、本のような遺書を残したいです。心で受け取ってもらえる可能性が高いからこそ、読んだ相手の人生を豊かにするような、想いがたっぷり詰め込まれた少し長めの遺書を残したいんです。

好きが高じて、誰かが僕の遺書を題材に書いた文章まで考えてみたので、まえがきだけちょっと読んでやってください。

僕の遺書を題材にした、80年後くらいに出版される本のまえがき

二十歳の誕生日を迎える一週間前、彼は自分の生き方の軸を見つけた。

それは、遺書を書くことを想定すること。

だから、彼はその生涯でたびたび遺書を試作した。遺書を書くことを中心に生活をした。他の人から見れば、おかしな趣味だったかもしれない。自己紹介で「趣味は遺書を書くことです」と述べなかったのは賢明だったと思う。

数十年をかけて練り上げられた彼のたくさんの遺書は、多くの人を笑わせたし、泣かせた。誰であろうと、彼から遺書を受け取った者はそれを一生の宝物とし、人生の節目ごとにこれを読み返すだろう。

その多大なる影響を本人が目の当たりにすることがないのは少しばかり残念なことだが、贈り物の主というものは得てして受け取ってもらえるまでが至福なのである。

死後受け取られるであろう、まさに魂を込めた贈り物を日々準備しながら、彼はずっと幸せだったのに違いない。

というのも、実はこれは僕の空想の話というだけではないのだ。

彼の死後、僕宛に数冊のノートが届いた。中身は彼の直筆だった。思わず笑ってしまった。表紙に「○○に宛てた独り言」とある。パラパラとめくってみると「渾身の遺書を作るし、死後に誰か出版してくれたらなぁ」としつこく書いてあった。宛先のある言葉は独り言ではない。矛盾している。

これの意味するところはもちろん、僕に伝記を書けというメッセージなのだろう。そう受け取ることにした。生前にさりげなく頼まれていたことでもある。冗談言うなよと返事したのだがまさか真剣だったとはね。

僕は、彼の仰せの通りにすることにした。幸い生活に余裕はあるし、何よりこのミッションをやり遂げずには死ねないと思えるものだからだ。私の誇るべき仕事になるだろう。

彼は、誰より人に惜しみなく与えることのできる人だった。彼に言わせれば、もっと気持ちよく遺書を書くため、最高の遺書として相手に届けるため、生前の見返りをほとんど気にしていなかったのではないか。馬鹿な話だ。

あなたも一年後に死ぬと宣告されて、遺書を書こうと意識し出せば彼の気持ちがわかるかもしれない。いや、わからないかもしれない・・・。

それでも、彼の遺書は、遺本はきっと多くの人を楽しませ、勇気づけ、希望を抱かせるはずだ。

彼の記録を元に、僕は彼の真の人生を語ろうと思う。これは、遺書を書く男の物語だ。

何処かで報われた気がして過ごせています

僕の遺書への情熱、あるいはわがままっぷりは伝わったでしょうか?笑

本当にこんなことになるかはともかく、これくらい人に力や希望やエンタメを与えることができる文章を残したいという感じです。そういう文章を残せるような人生を送りたい、が近いかもしれません。

もちろん、どんなに空想したところで死んだらそれを見たり感じたりできません。

でもそれでいいんですよね。

いつか遠くで、人から人へと渡った自分のメッセージを誰かが受け取って「これは私に当てられたものだ」と勘違いしてくれて、その誰かがちょっと豊かに生きられたらと思うと、至福。

空想だけで、もう報われているように感じられるなんてお得すぎるぜまったく。

というのは少しだけ嘘で、やっぱり生きられる分くらいには(金銭的な面とか、精神的な面で)生きているうちに報われたらいいなとも思う。

いつか誰かに届く空想だけで報われたように思えるなら、生きている間恩着せがましくならず人に与え続けることができるかも。ゆっくりゆっくりと人が変わるのを優しく眺めていられるような人になれるかも。そんな生き方をしたい。

遺書を書くならこんなふうに

最高の遺書を書くために僕はどう生きるのか!

僕にとって最高の遺書のひとつの大事な要素は、読んだ人が宝探しに出られることです。

そのために、この人生を賭して宝を埋めてくる、そんな妄想をしています。

どういうことかというと・・・

遺書の中に

「僕には〇〇という友人がいてね、彼は・・・な人なんだ。もしよければ君に会ってみてほしいな」

とか

「僕が生涯読んできた本のなかで君にも読んでみてほしい本がたった一冊ある。ちょっと読みにくいかもしれないけど・・・」

とか

「君がもし望むなら僕の2025〜2026年の雑記帳をもらってくれないか?字は汚いけど、もしかしたら君の力になるかもしれない」

とか

「君がいつか孫にプレゼントする物語を書いたんだ。よければもらってくれ。主人公は君にしてある」

とか

「もし余裕があって面白がれそうならでいい、僕の代わりに僕のフリしてnoteを書いてくれないか?」

とか

そんなことを書いておきたいんです。これが「宝」です。

で、その宝という名のお節介を「はいはい」と受け取ってくれた人同士がつながったり、稼げたり、何かを生み出したりして、そっから面白い話が紡がれて、さらにそのストーリーが自分の知らない誰かに伝わっていく・・・これを考えるのがたまらないんですよね。

だから、最高の遺書を書くために僕はどう生きるのかに対する答えは当然、遺書に埋め込む宝をなるべく素敵なものにするよう生きる、です。

具体的にどんなことをするかまでは書かないでおきます。僕がどんな宝を人生に埋めてきたかも、宝探しとしてエンタメになったらいいなと思うからです。

俺の財宝か? 欲しけりゃくれてやるぜ…… 探してみろ この世の全てをそこに置いてきた。       “海賊王・ゴールド・ロジャー”

おしまいに

今日の話は僕の思ってることの純度が高かったかと思います。本や事実を根拠に話していない分、あまりに幼稚だったりずれていたりしてやいないかとめちゃめちゃ怖いです(笑)

ただ、今の僕がだいたいこのように考えて充実しているのも事実だし、どうせ少しずつ考え方も変わりながら30年後にも何かわがままなことを書いていると思うので大丈夫です(何が大丈夫なんだ?)。

いずれにしろ、僕は読者のみなさんに対して誠実にこの記事を書いていることを疑っていません。

「誰かの心に届け〜、届け〜」「誰かの心に響け〜、響け〜」と願いながら今日も投稿しようと思います。

ではでは〜

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!!


追記

1年半前の文章を読み返すと、いいこと言ってんなぁと思う部分もあれば、そこごっそり削れと思う部分もあります。発見が多い。

冒頭でめちゃめちゃ書く能力がないことを強調しているのは特におもしろかったですね。なので、()で今の気持ちを書いたりしてなるべくそのままにしておきました。

最高の遺書を残したいという夢は、2021年が終わろうとする今も相変わらず捨てていません。

そんなわけだから、不老不死と明日死ぬのはごめんだね笑

ではでは。

最後までお読みいただきありがとうございました!


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