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将来への不安は、将来の不安定さを解消しない

正直に打ち明けると。

小学生のとき、不登校のいとこを“ダメな人”だと思っていました。数年経ったのち、中学に上がった自分もそうなると知りもせずに。

そして、不登校になってから気がつきました。

自分が“ダメな人”であることに、ではありません。

自分だけはならないと思っている状況も、巡り合わせ次第で、気づいたらそうなることがあるんだと気がついたのです。不登校への見方は、より複雑なものになりました。

それからさらに10年近くが経ち、僕は天職と思える仕事に出会いました。

思考を深め書くこと、話を深く聞こうとすること、戦略を立てること、人に教えること。

そういう、僕にとってはやること自体が喜びである行為で生計を立てられるようになりました。

今から振り返ってみると、このような状態になれたのは不登校の時に過ごした日々のおかげだと感じます。

不登校時に誰にも妨げられず自分の興味を探求し、自分を思い切り表現することができたからこうなれたのだと。

不登校は、恵みの時間でもあり得るというのが今の見方です。

このように、僕にとって「不登校」という概念についた色合いは時と共に大きく変わってきました。


<2つの教訓>

不登校経験から得た教訓は、次の2つでした。

1つ、自分だけはそうはならないと思っている状況も、巡り合わせ次第で、気づいたらそうなることがある。

2つ、できごとの評価は(自分でする意味づけも、他者がする意味づけも)時と共に大きく変わっていく。

この2つの教訓はほとんどどんなできごとにでも当てはまることで、むしろ不登校の話は単に膨大な例のうちのごく一つというに過ぎません。

運命というのは、非常に気分屋です。どれだけ備えていても、僕らは予想だにしない出来事に苦しめられることがあるし、逆に楽をさせられることもある。

急に病気で大手術が必要になったり、
突然大金が手に入ったり、
愛する人が若くして自ら死を選んだり、
運命とも思えるような出会いがあったり、
家族がバラバラになったり、
生涯の友に出会えたり、
大災害の被災者や事件の被害者になったり。

僕らが人生を振り返るとき、大きな意味合いを持つのは、だいたいこんな偶然起こったことです。

それでも、僕らはただ外的なできごとに翻弄されるだけではない。

起こった出来事の評価は、あとで書き換え可能です。状況が同じでも、評価はかんたんに書き換えられる。

だって、評価も運命と同じく不安定で、書き換えようとしていなくてすら、あとで起こる出来事によってかんたんに書き変わっていくんだから。

<ランダムな結果と単純な因果>

何がどんな結果を呼ぶかは、確率の違いはあるにせよ、ランダムです。

それだけでなく、一つの原因が一つの結果を起こすわけでもありません。

料理で材料が一つ、あるいは工程が一つ違うとだいぶ味が変わりますが、人間絡みのあれやこれやは料理よりさらに複雑です。

誰か1人や、何かひとつの言動にある出来事を引き起こすほどの力があったかなんてだいたいは疑わしいもんです。

でも僕らはすぐ単純な因果で考えたがります。

〇〇な人は、不登校になる。
〇〇すれば、成功する。
〇〇な人は、モテる、とか。

ついでに、単純な因果で考えたことを誰かに伝えたがる。

なぜそうするのか。
単純な因果で考えてみましょうか笑

世界がわかりやすいと安心できるからです。不運や失敗が、自分ではなく、“自分とは違うダメな人”のもとに起こるものだと思えるとぐっすり眠れる。単純な因果を周りに共感してもらってお墨付きをもらえるとなおいい。

どうでしょう。

いかにもそれっぽいですが、本当のところはわかりません。

これを読んでいるあなたはどう思いますか?

僕らは、どうなるかわからないことが嫌いで、不運や失敗は特別“ダメな人”の身に起こるものだと思いたいんじゃないでしょうか?

<嫌な思い込みを打ち消す行動>

結果がランダムなように、評価も脆く、うつろいやすいことを踏まえると、僕らが評価のために取る行動の虚しさがわかります。

人はしばしば、自分自身についての自己評価(自分について無意識に思い込んでいたこと)、それを打ち消すために理想を抱きます。

例えばある人が自分は頭が悪いと思っていて、頭が悪いのは最低のことだと思っているとします。

すると、嫌な思い込みを打ち消そうとして「頭がいいこと」は自ずと理想に掲げられるでしょう。自分の頭が悪いと思う証拠を全部消してしまいたいと願ったりする。

では、その理想に向かってすることは?

「自己肯定のおまじない」と「体験カタログ作り」です。

「自己肯定のおまじない」とは、自己肯定の宣言のことです。鏡を見て、「僕は頭がいい。僕は頭がいい」と唱えるようなこと。

本当に頭がいい人は、1日の始まりに鏡に向かってそんなことを言うはずがありません。だから、無意識はちゃんとわかっています。ちゃんと「お前は本当はバカだからこんなことをしているんだ」と翻訳されているのです。

次に、「体験カタログ作り」。

自他に理想の自分を認めさせるために、というより、嫌な自分じゃないことを証明するために、実績を作ろうとする行為です。

自分をバカだと思い込んでいる人は、その埋め合わせとして、いくつも学位を取得したり、人を感心させるような知識を蓄えたり、わかったふうにコメントしたりします。

もちろん、こういうことをする人がみな自分をバカだと思っているわけではありません。純粋に好奇心からしている人もいます。

しかし、嫌な思い込みを否定するために「体験カタログ作り」をしているというのが動機なら、その人の願いはいつまでも叶わないでしょう。

どれだけ学位を取ろうと、世間が賢いと認めようと、嫌な思い込みは消えません。それどころか、むしろ強化され続けていく。

もし自分自身がわからないことがあるのに気づいてしまったときには、まるで重大な罪を犯したかのように、自分を厳しく叱り付けるでしょう。

人と会う時にも、相手が自分より賢いかどうかに焦点が当たり、相手について理解を示そうとするのは二の次になってしまいます。

そんな過ごし方で、充実した日々を送れるのか。

<不確実性への恐怖>

評価と結果が完全にはコントロールできないものであると受け入れることは、怖いことなのかもしれません。

だから、なるべく単純な因果で考えたいし、完璧な評価が欲しい。

その欲から派生して、間違った思い込みが形成される。

自分と違ってダメな人にしか悪いことは起こらないとか。時間をかけたからには報われなければならないとか。資格を取れば私は認めてもらえるとか。気絶するまで勉強すれば自分を賢いと信じられるとか。

しかし、思い込みはどれだけ強く信じていても文字通り思い込み、幻想に過ぎず、時の流れは容赦なく襲いかかってきます。

僕らが神か親かはたまた別の何かに対して
「こうしてれば大丈夫なんですよね?私たち、信じてそうしますからね?ね?聞いてます?(イヤな目にあったら無限に文句言ってやるからな!)」という態度を取るのは自由です。

が、そうした期待は現実的ではない。

人生は不確実性が形作るものです。平均寿命くらい生きていれば、極端な不運も、超絶なラッキーもどっちも起こる。生きることそのものがリスキーとも言える。

世界で一番ビクビク用心しながら生きたって、一生安定なんてことはありえません。昭和ならそれもできた、とかでもありません。

たぶん全人類が、いつの時代をとっても、予想外の不運と幸運によって人生を彩られているのです。

もちろん、予想外の不運と幸運の配分には人それぞれ違いがあります。そのことが、互いを憎み合わせたり傲慢にさせたりするのかもしれません。

ただ、そうだとしても僕は希望はあると思うし、納得した生き方ができると信じたい。

なんて熱いことを言っても、現実はねと思うかもしれません。

できることなら、リスクを減らしたい。大切な自分と誰かを守るためにも。

前回は、このことを金融系の理論やローマの哲学者セネカの主張から考えました。今日はまた別の古い言葉を引用して考えてみます。

<不確実性に強い状態>

「こうしてれば大丈夫なんですよね?私、信じてそうしますからね?ね?聞いてます?(イヤな目にあったら無限に文句言ってやるからな!)」

という姿勢でいるとき、僕らは何か(資格や、まとまったお金や、友達からのいいねや、偉い人のお墨付きや、SNSのフォロワー)を手に入れた状態になれば、不安な気持ちがなくなるのではと考えています。

何かを所有すれば、解放されると。

さっき出てきた「体験カタログ作り」ですね。

ですが、こういう不安の根源が不確実性にあるなら、真理はおそらく逆です。つまり、得たら得ただけ不安になるに違いない。

資格を取れば取るほど、お金を稼げば稼ぐほど、評価を得れば得るほど、なにかひょんな出来事によって、全部を否定されるようなことが起きる不安で押しつぶされそうになるのです。

これに対して、不確実性に強い状態というのは、何かに“なろう”とはしていない感じがあります。そもそも予想される結果によってやる(やらない)ことを決めませんし、やったことの結果でやった意味を測りません。

やりたいからやる。突き詰める。
ついやってしまうことをベースに、本気で楽しむ。

失敗しようが成功しようが、誰かに横槍を入れられようが、どうせ一生これをやって楽しむんだろうな。

そんなふうに思えることがあれば、不確実性は大した問題じゃありません。

時と共に評価が変わることは、単に雲が移り行くのと同じ。

どうせ、プラスにせよマイナスにせよ突然の突飛な出来事を糧にまた何かを創り出すだろうと感覚的にわかるはずです。

最近、『成果一やさしいやりたいことの見つけ方』の八木さんがTwitterでこんな画像を紹介していましたが、まさにそれが才能なんだと思います。

自分の体がたまたま持っている、無根拠なこだわりを肯定する。

続けようと思わなくても続けてしまうこと。

それは一生付きまとうものだから、捉え方を少しだけ変えてみて、前向きな方向であれこれ遊んでみる。人の役に立ててみる。

こうしたことの積み重ねで、周りからも「才能」と認められるものが形作られていくんだと思います。

<誰がなんと言おうと、自然に>

この、才能の話ですが、哲学や宗教の昔ながらの教えにも通じてきます。

倫理や哲学・宗教の世界では、外的なものに左右されない自分の内的な側面の成長を育みなさいという教えが多いのです。

※さも知ってるふうだけど、趣味で数十冊入門書を読んでるだけです。

一つ例を挙げましょう。
「逆説の10か条」です。

これは、マザー・テレサが活動していたカルカッタの「孤児の家」の壁に書かれていた教えです。

画像の引用元

かんたんにまとめると。

つまり、ただそうしたいから、誰がなんと言おうが報われなかろうが、そんなこと関係なくする(しない)ような善やら徳やらを育みなさい。

となるでしょうか。

別にほめられなくても、無視される可能性があっても、自ら親切に振る舞え。経済的に成功できなくても、ふてくされるな。

体が不自由になっても、その他あらゆる災難に見舞われても、それでも信念をもて。それでも世界を愛せ、というわけです。

ほら、さっきの才能の話と全く同じ。

逆説の10ヶ条に現れているような感覚は、趣味とか癖とか呼ばれる、ついやってしまうことの感覚と非常に近いのです。

いや、そりゃハードル高っと読む気が失せた方、すみません。

でも、そうなれるかはともかく、本当にそういう精神を持つ人がいれば、最強であることには同意できると思います。

そんな超人は、外的な何かによって自己の充足を奪われることがありません。「俺も汚れちまったよ」なんてこと、言いません。誰にも彼の精神を汚せない。

逆境は、むしろ彼の心身を育てる糧となるでしょう。

で、ちょっと飛躍してるように思えるかもしれませんが、自ら肯定し、注意を注いで磨いた趣味(本気でした遊び)から得た感覚がなければ、そしてそこで育ててきた才能を利用しなければ、そういう強さはなかなか身につかないと思うのです。

もともと趣味や癖みたいなところ、無根拠なこだわりから始まっているからこそ、外部の状況変化はそれを続けるかどうかに影響しない。純粋に善的であれるというわけです。

今日はここでおしまい!

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