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「未来には行ける可能性ありそうだけど理論的にやっぱり過去へ行くのはどうにも難しそうだよね。」

みたいな話を、先日SFメイトでもあるNovoiski氏と夜な夜な語っていたのだけれど(クリストファー・ノーラン的なやつ)、もし、万が一にでも過去の時代に移動する事が可能だとするのならば、迷わず僕は「江戸時代」に行ってみたい。

浅草にある母方の実家のお寺を住処すみかにして、当時の華やかな江戸の暮らしを余す事なく享受してみたい。

その理由はだいたい百個くらいあって(ない)、1つ目は何といっても魚とか鰻とか寿司とか蕎麦とか、兎に角食べものが絶対美味しいに違いないだろうという事(環境汚染などとは無縁だったであろう)。

2つ目はうちの寺を代々守っていた祖母や僕の名付け親でもある酒呑み不良住職の叔父の様な、所謂ちゃきちゃきの江戸っ子達と酒を飲み交わして、花火とか寄席に繰り出したりしてみたい。

3つ目はまさしく明治維新以前、西洋文化ナイズドされていない本来の日本の民俗の文化と精神性を、町に出てこの目と身体でリアルに空気を体感してみたい。

そんな古来の日本を日本人よりも探究し、触れ合い、憂いている外国人の方がいる。
エバレット・ケネディ・ブラウンさん、ワシントンD.C.生まれの湿板光画しっぱんこうが(幕末時代の写真技法)写真家として活動する京都在住のアメリカ人だ。

驚く事に彼は、幕末にペリーと共に黒船で来航した専属記録カメラマンの一族の末裔だという。

そのエバレットさん曰く、いま現存している日本の「伝統文化」とされているものはとうの昔に形骸化してしまっていて、その"作法"や"しきたり"が持っていた本来の意味はすでに失われてしまっている、と述べている。

公家などの儀式は元より、茶道・華道・香道であれ武道・書道などにおいても、その外殻の器だけが残っていて、もはやお稽古事として嗜む程度に成り下がってしまっているのかもしれない。

本来そこには「身体感覚」を重んじ、五感を研ぎ澄まして対峙していた人々が、言葉を用いずとも「気配」や「呼吸」でコミュニケーションが成立していたという。

しかしその変革の波を防げず迎えてしまった激動の幕末から来たる明治維新、その経緯には諸説あるけれど、どうであれそういった永遠に失われてしまった"本質的なもの"への懐古と畏怖の念が、近頃、僕の胸につよくあり続けている。

そんな折、かつて柳田國男が民俗学を開拓した岩手・遠野にて、ちょうどエバレットさんとこれもまた愛読する『海獣の子供』の五十嵐大介さんとの企画展が開催されているというのも興味深い。

思えば、元来僕が二大偉人として敬愛する知の巨人、宮沢賢治、南方熊楠もまた、その作品や生き様にそういった信念と憂いが強く見てとれていたのだ。


個人的な話ではあるけれど、僕は日々、幸せとは、豊かさとは何だろう、自分をそうたらしめるものとは一体何に起因するのだろう、とよく考える。
特に、歳を重ねるごとにその思考は強くシンプルになっていっている気がする。

物質社会と精神社会、感性と理性。
どちらが正しいという事ではなく、しっかりと逆側の覗き穴からも物事を捉えてみたいと思うのだ。
だからもし江戸の時代に、その時の日本に自分が居たとしたら、どう感じるのだろうかと夢想してやまない。

あなたは、もし過去に行けるならどの時代に行ってみたいと思うだろうか?



<おまけ>
また違った視点から「日本人」を浮き彫りにしている愛読書をご参考までに。
元々関連づけて読んでいたわけではないけれど、色々とリンクして脳がゾクゾクしてしまう。

特に、以前からあちこちで記述しているけれど、『忘れられた日本人』の「土佐源氏」の章は、一庶民の語りを記しただけにはとどまらない、余りに切なすぎる純文学の様な趣があり、度々思い返しては頁を開いてしまう名著。






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