母の日記
調子の良くない日々が1ヶ月ほど続いていた。
ちょうど月一回の精神科の通院があったので、診察で話をしてみることにする。
家から近くのクリニックに通っているため、いつも知り合いに見つかるのではないかと落ち着かない気持ちになる。
でも、見られたからなんなのだ。とも思う。
今どき精神科にかかることは特別なことではないし、心に問題を抱えていることを恥じる必要もない。
狭いけど明るく綺麗な待合室は10代くらいの若い人からお年寄りまで性別もさまざまで混み合っている。
皆んな普通だ。見た目では不調を抱えているようには見えない。
今の世の中、大変な思いをしている人が本当にいっぱいいるものだ。
診察のたびに、そう思う。
プライバシーの配慮なのか、名前ではなく番号で呼ばれて診察室の扉を叩く。
軽く挨拶をして、鞄を置いて、
いつも通り先生に「調子はどうですか?」と聞かれる。
一呼吸おいて、至って普通な風に最近の不調を説明しようとしたところで涙が溢れて出てしまう。
それでも症状や思い当たる原因をあれこれ続けた。
生理前のPMDD(PMS)が悪化しているかも、とか
人と自分を比較してしまう、とか
ほかにもいくつか。
泣くつもりはなかったのでハンカチは持ってきていなくて、ポロポロと溢れてしまう涙を診察室のティッシュで抑えた。
先生は落ち着いた口調で、
初めに診察に来た時うつが中程度だったこと、
順調に回復していたけどどうしても波があることを説明してくれた。
初診&仕事を休職したのが11月末だから、それからもう6ヶ月も経っているのか…とカレンダーを眺めながら驚いた。
「でも、人と自分を比べてしまうのは良くないですよ」と先生が言葉をつけたす。
「とても幸せそうに見えても実は苦しさを抱えていて、いきなり入院になってしまう人もたくさんいます。逆に、波がありながらもバイトが出来ている今の胡桃さんの状況を羨ましく思う人もいるんじゃないかなぁ。」と。
ただ頷きながら聴く。
薬は増やさないで貰った。
でも話を聞いてもらうだけで、
受け入れてもらえるだけで、
言葉をもらえるだけで、不思議と心は軽くなる。
その日の夜、
読みたい本があってリビングの棚を漁っていると、1冊の古びたノートを見つけた。
何気なしに開いてみると、茶色になった紙にボールペンで『2003年』と綴られている。
生まれてから幾度となく目にしてきた、教科書みたいに綺麗な字。
これは約20年前の母の日記だ。
びっくりしてノートを閉じる。
心拍数が上がる。
いくら昔のものでも、人の日記を勝手に読むなんて最低だ。
それに親の心の内を知るのも怖い。
そうは思いながらも、背に腹はかえられないというか、命にはかえられないというか、
生きる活力が欲しくてページを開いた。
2003年の春〜夏にかけての短めの日記には、私の記憶にない私と姉への愛で溢れていた。
普段は見せない母の愚痴とか弱音を見てしまったら辛いなと思ったけど、そういうものは全くというほどなく、自分のことよりも家族のことばかり記されていた。
変わった性格の姉の子育てが面白いし誇りに思うとか、
でも小学校に通い出してちょっと浮いているのが不安とか。
私のことは自分に似ていて結構普通と書かれていた。笑
日記で初めて知ることがたくさんあった。
ずっと強く見えていた姉にも繊細な一面があって、死んでしまった金魚を土に埋めるとき「明日もお水あげにこようね」と言いながら泣いたこと。
父が仕事のストレスで心療内科に通っていたこと。勤続11年のある日、限界を感じた父が初めて自分のために仕事を休んで、その日は家族みんなでファミレスでランチを食べて帰り、昼寝をしたこと。
家計が苦しかったこと。子供が寝た夜だけでもパートに出ようかと相談して夫婦で言い合いになり、結局もっと節約を頑張ってどうにかしようと決めたこと。
他にもいろんなことが書いてあった。
苦しいことがあってもネガティブな言葉は書かれず、「フゥー」とため息だけが文字として残されていることもあった。
読みながら涙が溢れて止まらなかった。
私の命は私のものではないと思った。
自分は覚えていなくても、
この命は、この体は、両親が必死に守り抜いてきた結晶なのだ。
うっすらと、でも確かな希死念慮を抱いていた自分がすごく愚かに思えて、初めて心から生きたいと思った。
生き続けなければならないと思った。
幸せになる努力をして、なるべく幸せになろうと思う。
悲しそうな私ばかりじゃなくて、嬉しそうな私をもっと見せてあげたい。
風立ちぬ、いざ生きめやも。
大好きな映画でもそう言ってたし。
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