【読書感想】ファミリーランド
近未来SFと家族に関わる問題を掛け合わせたこの連作短編集を知ったのは、『SFプロトタイピング』において、その事例の一つとして紹介されていたのが気になっていたからだった。そこでは本作は、以下のように紹介されている。
端的な短評だが、実際に読了してみると、「ホラー」というよりも「イヤミス」に近いように感じた。また、「価値観は大きく変化していない」というのも少し纏めすぎのきらいはあって、デザイナーズチャイルドの短編は価値観が大きく変容していることで、差別対象となっている「私たち」の鏡像が描き出された秀作となっているし、自宅看護用小型飛行ロボットの短編は「信頼できない語り手」モノとして完成度が高いと感じた。
コンピューターお義母さん
「十分に発達した科学技術は、技術にも魔法にも見えない。ただの手段にしか見えない。」義母の介入に耐える嫁が、アーサー・C・クラークの第三法則をもじりながら、やや野暮ったい言い回しでそのように独りごちる。
スマート家電をインターネットに繋ぐ(IoT)ことで、生活パターンに関わるビッグデータをプラットフォーム企業に掠め取られる危険性はすでに生じているのだが、本作ではハッキングを使いこなす姑という具体的な主体を設定することによって、それらが窃視される恐怖を具体化して描いている。
そして、その主体が姑という身内(しかも老い先の短さが見えている)であることによって、赤の他人であれば刑事事件として訴え出るであろう被害であるにもかかわらず、我慢して問題を棚上げすることが最善策となる不合理ともなっている。
さて、姑の生活監視は、玄関のロック機能や、冷蔵庫の内容物のチェックあたりではまだ「小うるさい」という程に解釈する余地もあったところ、介護に対応する目的で開発された「ベッドの体温感知センサー」を利用して、夫婦の夜の営みについてコメントするあたりから次第にエスカレートしていく。
この着想で思い出したのは、『セレモニー』王力雄(2019)という小説だった。そこでは靴にIoT機能が埋め込まれ、国民の移動状況が靴を通して監視されているのだが、単に「どこに行った」「誰と会った」というだけでなく、「性交時靴間距離」というベッドの横幅と同じ距離を挟んで男女の靴が長時間停止しているときに、スキャンダルの可能性を監視者にアラートする機能までもが実装されていた。
家族物語としての本作において姑は、嫁の性的秘密を握ることを通して、しかしそれを『セレモニー』の監視者たちがそうしたように、世間に公表するようなカードとして使っているわけではない。当然である。市井の一市民に過ぎない嫁の醜聞に物語的な価値は低いし、一族の恥を進んで明かしてまで、嫁を家族から放逐しようとまでは考えていない。
代わりにそれを、もっと知られたくないであろう人物、すなわち息子(孫)に伝えることで、息子(孫)の支配権を嫁から奪い取ろうとする、というように話が展開していく。姑の行動は、表面上の優しさ・穏やかさをまといながら、あくまで家族の内部に浸潤していく。
ここで嫁は息子(孫)に性教育を施す役割を姑に奪われたことで、息子(孫)が「洗脳」されていると解釈するのだが、この点は少し注意が必要と感じた。すなわち、前近代・近代においては「隠居から子どもへの教育」というモデルが成立していたということである。労働に従事する現役世代である親世代から直接教育を受けるのではなく、すでに現役を退いたご隠居、祖父母世代から子どもたちは教育を受けてきた。
その意味で姑がここで息子(孫)に教育を施すのは、伝統的価値観に沿った行動と評価する余地はある。「洗脳」という解釈は嫁が追い詰められていく描写として鋭さがあるとともに、嫁が無意識に実践している、姑側のそうした価値観を途絶するディスコミュニケーションを示唆してもいる。
タブレットを同僚に託し、デジタルデトックスを済ませたうえで、嫁は姑の入居するホームへと殴り込みをかけ、想像を遥かに超える弱り方をした姑が「寂しかったの・・・」(大意)と打ちひしがれて斃れ伏す最期を目の当たりにする。
本作のオチは姑が死んだ後に生活に張り合いがなくなった家族たちのために、「オンライン姑」がアウトソーシングされ、全く赤の他人の暇を持て余した老人たちに再び生活監視と介入を受けることで復調するという元の木阿弥の恐怖となっている。
同じ被害を既に受け、受け流すことを決めている同僚が諭す「旦那と子供には普通に優しいの。甘やかし気味だけど悪いようにはしないんだよね絶対。たまに役に立ったりもするし」という適度な他者としての姑の距離感が、実は家族を成り立たせるために「必要」なスパイスなのかもしれないと感じさせるのがなんとも後味が悪い。
翼の折れた金魚
妊活に際して「コキュニア」という薬物を服用することで、外見が金髪碧眼になるとともに知能が向上する「計画出産児」が大半になった時代に、黒髪黒眼の「無計画出産児」(デキオ・デキコ)が差別される。その様子を被差別者の視点での苦難体験などを通してではなく、「善良な」小学校教師が無計画出産児を巡る出来事に応対しながら、思考の深層に定着しきっている差別意識をこれでもかとモノローグすることで描き出している。
こうしたモノローグを地の文として読み、主人公が規範化しているグロテスクなポリティカル・コレクトネスを目の当たりにすることで、読者はどうしたって障害者(児)とのアナロジーを想起するだろう。無計画出産児を優生思想的に排除する思考は、テクノロジーの発達により「計画」することで「失敗」を回避できるという前提が付されたときに、歯止めを失って加速していく。つまり障害児という「失敗」の存在を「あらかじめ回避できないのだから認めざるを得ない」と考えている人々は、「計画によって回避できるのにそれをしない」ことで生み出された「失敗」の存在を排除することに抵抗がない。現在とつながる鋭い指摘になっている。
次に、クラハ(玖羅葉)という無計画出産児の少女が音楽の天才を示すことで、計画・無計画の別が社会の功利主義的価値向上に対して中立なのではないかという揺さぶりがかけられる。人間の価値の軸線が多様であるという指摘は古くて新しく、簡単に例を挙げるだけでも『HUNTER×HUNTER』のコムギ(肉体的強靱さは最下層であるが、軍儀(ボードゲーム)の才が最上層の障害者)や、動物パニックものの『ブラック・ドッグ』において、吃音の少年の鋭敏な感受性が頼みになる展開などが想起される。
一方、返す刀でしっかりとこうした視点を挿入するのが作者の実力だと感じた。この点を『新しい声を聞くぼくたち』第6章の議論を参照しながら描写して見ると、まず、障害学的な分析はインペアメント(手足や身体の組織・機能の「客観的な」欠陥)とディスアビリティ(身体的なインペアメントをもつ人々を社会活動の主流から排除することにより生じる不利益)の違いを導入することで、ディスアビリティを生み出している社会の側に問題がある、と論点を提示してきた。そのためにバリアフリー化やノーマライゼーションの思考啓蒙などを通してディスアビリティに陥っている人々を「解放」することが社会運動になったのが、やがてそれは「就労可能性」を基準とした障害者の新たな線引きに繋がっていったとされる。
すなわちクラハは「音楽の才」を発揮することによって、既存の能力主義・計画児と無計画児の階層関係を揺るがしているように見えながら、実のところ「音楽の才」を発揮する限りにおいて存在を認められるという、能力主義の再強化をもたらしているということとなる。(「インペアメントの肯定は、障害者のワークフェアへの抵抗に見えながら、容易にそのワークフェアに取り込まれてしまう」)
ややクドくなるが、こうした視点は動物倫理の分野でも語られている。動物を保護する規範は、動物を感覚(sense)の主体と捉えることで彼らの快・不快もまた功利主義的な配慮の元に引き入れることで、快の総和を高めていこうという哲学(ベンサムに依拠したP・シンガーの議論)を起点としているが、そうではなく動物は存在そのものを主体として尊重されるべきだ(カントに依拠したレーガンの「動物の権利」論)へと発展していった。
そうであるならばやはり、いま現状において「健常者」とされているものであってもやがて線引きが改められることに備えるためには、就労可能性・ワークフェアにおける価値の総和に資することで存在を許されるのではなく、存在そのものを尊重される哲学が打ち立てられるべきであるとも考えられる。
そのように、所与の属性に対してはやぶさかでなく配慮を行う主人公であるが、上述したように「「計画によって回避できるのにそれをしない」ことで生み出された「失敗」」については極めて峻烈な対応を取る。具体的にはクラハの母親が意図的に無計画出産を選んだことを糾弾し、虐待として通報することとなる。無計画出産児の存在は「親が悪い」という規範意識に、ある意味で忠実な行動である。
そのすぐあとの節で、計画的出産をした後輩教師が、泣きわめいても引き出しを閉めることで音が小さくなって便利だといって、子をタンスの中に寝かせるという虐待を行い、主人公はこれにも通報をもって応じる。ここで主人公は「コキュニアを飲んで生んだらそれで終わりでしょ?」という若者の価値観の変容に触れ、「コキュニア至上主義もおかしいのではないか」と気づくのだが、読者はむしろそうした”わかりやすい”態様の虐待と「無計画」であることが同列の罪として論じられていることに恐怖する、という時制の逆転現象が起こっているのが展開として秀逸だった。
最後に主人公は、コキュニアを飲んだにもかかわらず自分の子どもが金髪碧眼の形質を発現させなかったことによって絶望へと至る。そして、被差別当事者になることで差別意識を改めるのではなく、髪を染め、コンタクトレンズを嵌めることでそれに対応しようとする。
外見による差別はルッキズムとして非難されそうであるが、その差別構造を問い直すのではなく、外見という「インペアメント」を「努力」や「計画」によって克服しようとする。学校教員としては属性への配慮を怠らなかった彼ですら、当事者(責任主体としての「親」)となってみれば(懊悩は抱えつつも)そのような新自由主義的思想の極北へとたどり着いているのが欺瞞的だといえる。
マリッジ・サバイバー
就職活動ですら、それが「労働力」という商品を売っているという点でまだしも人格そのものから切り離すことが可能であるのに対し、婚活においては「家庭生活」という側面のみを切り離して商品化することが事実上認められておらず、全人格をさらけ出して自分に値札をつけることが強要される。
その論理的帰結として、婚活マッチングアプリには、考え得る全ての個人情報を登録しなければならないのだが、これだけ個人情報に対する感度が鋭敏になった時代における、それは最後のセキュリティホールだとも思える。この点をとらえ、国家権力と癒着した、監視社会の有力なチャネルとしてマッチングアプリを把握する創作は、実感を以て迫ってくると感じる。
監視の精度を高めるために導入されている仕組みとして、本作で主題化されているのは位置情報と匂いである。位置情報についてはすでに恋人同士、友人同士で確認できるアプリが存在するため、あとはそれを他人に知られることに対する忌避感が摩耗していけば、現在の延長線として理解しやすいだろう。
匂いについては視覚・聴覚と比べて遠隔地への伝達が困難であるが、インプットとアウトプットを化学成分に分解して伝達することで成し遂げているのはワープ技術の発想(A地点の物質をB地点に移動させるのではなく、A地点の物質組成をB地点に再現する)の応用と感じたが、少し調べると既に原型は実現しており、あとは組成再現の精度が高まるのを待つばかりの技術のようだ。
最初に会った女性が「別れの理由を告げてくれる」というのがゴースティング(別れの理由を告げず、ブロックして終わりにする関係性)の時代には少し違和感があったほか、全体的に単線的な話ではあった。
サヨナキが飛んだ日
これは連作短編集の中で一番ぶっ刺さる作品だった。ここまでの短編は主人公のモノローグを地の文に使いながらも三人称で書かれていたのに対し、本作は「娘を殺してしまった母親が、その悲劇に至るまでの顛末を証言する」という。ここで採用される一人称の語りという表現技法に、思わず「信頼できない語り手」を警戒する。最後の8行は完全に蛇足だが、エンタメとして分かりやすさを求めるには必要なのだろうな。
まず、娘との関係が良好であったことを示すため、炎天下の中、電車と徒歩で2時間かけて婦人科クリニックに通った妊活の日々を回想する。医療アクセスは都市部に一極集中しているのではないかと思われるので、舞台はある程度の郊外か田舎であると考えられる。いずれにしても、それほど大変な思いをして産んだ子どもであったと表現している。
「どれほど科学技術が発展しても、家の中に持ち込んではいけないものがあった」と、自宅看護用小型飛行ロボット「サヨナキ」を評する。ナイチンゲールの和名は、看護師であり、鳥であるダブルミーニングで技ありの名付けである。そのことに「納得もしていらっしゃるはずです」という語りはぐいぐいと読み進める推進器であるのだが、読み返してみると独善的に響く意味でここもダブルミーニングになっている。
「ただの機械」に対し「そうだよ。だから安心でしょ」という娘のコミュニケーションの変容までは、どう進展するかドキドキとするのだが、P166で圭介くんのエピソードに移った時、違和感に気づく。「瑠奈との交流は続けさせていましたが」ってなんだ?「親を拒否し、壊れた機械に涙を流す、異常な人間を生み出してしまうのか。」に示される「異常」の定義が、結局人間の認識の問題だという話。
今夜宇宙船の見える丘に
未知との遭遇を親の介護と結びつけた怪作だった。芝居がかっているので狂言かと思ったら、本当に宇宙人が降りてくるので驚いた。
本作の見所の一つは譫妄の父親を自宅介護する為、「ケアフェーズ」と呼ばれる処置が選ばれていることで、人工肛門をとりつけるフェーズ1が現代でも取り入れられているのに対し、フェーズ2は健康な足を切断し、行動を抑制することで、人体をより介護しやすい形に改造する処置となっており、思わずギョッとする。
みずからの身体を強靭に整える(薬物によってパフォーマンスを上げるとか、羽を生やして空を飛ぶとか)方向性で発展するトランスヒューマンの軌道をずらせば弱者を機能へと単純化する方向へと容易に動く。また、処置後の身体を分解する技術は、死体損壊に悪利用されそうである。
それにしても、サ高住(サービス付き高齢者向け住宅:主に要介護度が高くない高齢者を対象にしたバリアフリー住宅)に老親を突っ込んで「親孝行」した気になる男と、フェーズ2を取り入れてまでも、介護をみずからの手で行う男を対比することで、読者はフェーズ2に対し、どうしようもなく「あたたかみ」のようなものを感じとってしまうのが介護のジレンマなのかもしれない。稼得能力なのか、労働力なのか。子を成す選択をしたとき、育児にリソースを割くとき、教育費に可処分所得の大半を投じるとき、親は子に対し、どのような「親孝行」の報いを期待しているだろうか。
物語の終盤には、両腕を切断するフェーズ3と、脳の機能を抑制するフェーズ4が登場する。ここまで来ると尊厳死とは真逆で、どれだけ尊厳を失おうとも延命することが重要となっている。「手を繋いだら行ってみよう」を実現できなくなるフェーズ3・・・
それがなぜかというと、「年金をもらえるからだ」と説明される。高齢者を偏重し、現役世代への再分配を抑制する社会保障政策は、身体機能の衰えた高齢者をいわば「年金受給権との交換チケット」の位相にまで解体する。
ファーストコンタクトで宇宙人は驚くべきことに<わたしたちをやしなってください>と懇願するのだが、「やしなう」とは「養う」であると同時に「畜う」であり「飼う」でもある。人間の生命を道具へと疎外する資本主義の末路が正しく描写されているとともに、そのような道を進んだ先には、他の宇宙から「周縁化」され、ケアを収奪され、矛盾を押し付けられる対象(客体)としての地球が存在するのではないか、という警鐘になっている。
合わせて、では低予算を何とか克服しようと現在の社会保障政策が救いを求める「相談支援」政策の方向性も、主人公に「他人に助けを求める度胸のない」と独白させることを通して、介護の個人化、新自由主義化が「相談」そのものをスティグマ化させることで隘路へと入り込んでいる状況を描写することによって棄却されることになり、介護の「明るい将来」がことごとく潰されていくことになる。
愛を語るより左記のとおり執り行おう
空間情報を同期する「シェアスペース」がオフィスを始め一般的になった時代に、葬儀は実際の死地(老人ホーム)と喪主の自宅と喪主の会社の3箇所を会場(同期実施地点)として執り行われるのが一般的になっている。「永遠に戻らないこの時間の中、愛を語るより君を感じたい。とめどなく高なる胸がはりさけそう」な「良い葬式」が低コストで演出されるよう最適化されている。
そのような時代に、過去の葬祭場型葬儀を希望する老人をドキュメンタリー映画として追うという話。どんでん返しもミステリも少なく、我々現代人からは「常識」となっている葬祭場型葬儀を再現するために未来人たちがドタバタするのをコメディタッチで楽しむ。
まず動機面では、確かに、アナログ葬を数ある葬儀の形態の選択肢の一つにまでアーカイブ化できればサービスの質は高まるだろうし、その実施を趣味的に希望する人も増えていくだろう。しかし、本作ではひと工夫を加えて、アナログの潜在能力であるセレンディピティ(偶発性)を生かし、必ずしもデジタルに案内を出せない人間関係に対しても、自分の死の事実を伝えることを期待して、老人はアナログ葬を希望している。つまりここでは、利便性・合理性こそが選択の際の最重要要素として理解されているという意味で、現代からの延長線が引かれている。
次に、振り回される喪主側の受けとめにおいて、特に関心深いのは死体を見て驚くシーン。シェアスペース型葬儀では生前の映像・画像を元に再構成された故人の映像が、あり得そうな別れのコメントを音声として発すのみで、生身の死体に触れることはない。初めて死体を見た人々は、その腐敗や醜さに恐怖する。死をはじめとするケガレをことごとく周縁化し、清潔さを装う社会の果てが端的に描写されている。
葬祭のノウハウの喪失というテーマは、『土葬の村』でも語られている。野辺送りを挙行する労働力動員や、様々な象徴の解釈は、既に不可逆的に失われようとしているし、未来において再現しようとすることには多大なコストがあり、そしてラストの放鳩シーンのように、「やり過ぎ」に至ることもあるだろう。(過去としての)現在と未来の対話に思いを馳せる、連作短編のラストにふさわしい作品だった。
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