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「社会のために高齢者は死んだほうがいい」という考えは短絡的だと思う

「社会のために✕✕すべきだ」と声を荒げ、それがときには殺傷をともなう事件に至ることがある。

そして、このような事件に共感を抱いたり、影響を受ける人たちもいる。

特にこの手の話はメディアも取り上げやすいため、ワイドショーのでもコメンテータたちが煽るように自論を述べる。

SNSでも色々な意見が飛び回り、当初の問題からズレて言ったり、新たなトラブルを生んでしまうこともある。

なぜ、このような事件が起きてしまうのかと言うと、事件を起こすことで社会問題に目を向けようとする輩がいるからだ。

しかも、皮肉なことに、社会問題が事件性を帯びるカタチで露呈することによって、確かに社会問題に多くの人たちが目を向ける事実はある。

だからこそ、煮え切らない社会問題に対して事件を起こす人が後を絶たないのだと思う。



たまに「社会のために、高齢者は死んだほうがいい」という考え方をする人を見かける。

それは高齢者は、経済的活動をしていないうえに医療費や介護など社会にとって”お荷物”だからという理屈らしい。

これについて予めお伝えしておくと、私は介護事業を営んでいる立場として正直に言えば、社会は高齢者に配慮しすぎだと思うことはある。

少子高齢化が明確になっているのに、子供も高齢者もどちらも同列に優遇するような社会資源が枯渇するような制度は両立しないとも思っている。

だからと言って「死んほうがいい」とまでは思わない。

これは高齢者は人生の先輩だから、という礼節や倫理的な話ではない。

――― 社会を成り立たせるために誰かが犠牲になればいいという発想は、最終的に社会を失墜させる。

これは平等性を説いた話でもない。色々とシミュレーションすると、こういう考え方に行き着くだけの話だ。



例えば、高齢者という「経済活動をしていない」「医療費や介護費などの社会資源を要する」といった人たちを選定し、その人たちの生命を断つことが許されたとする。

それによって、確かに医療費や介護費などの社会資源の負担は減る。

しかし、これだと医療や介護に携わる人たちの仕事が激減するという見方もできる。高齢者によって、現代日本において医療福祉という業界と経済が成立しているという側面があるのだ。

また、高齢者だってお金を払って商品を購入したりサービスを受ける。買うということで、モノやサービスを提供している企業が成り立つ。それが高齢者を排除すると、その売り上げは激減することになる。

何を言いたいのかと言うと、高齢者は生産性に乏しいかもしれないが、経済活動をしていないというわけではないのだ。

まずは、この点をご理解いただきたい。



もしかしたら、経済に詳しい方からすれば突っ込みどころは大きいことは承知だが、ひとまず話を続ける。

次に、社会の仕組みというものが崩壊する可能性がある。

どういうことかと言えば、「社会のために」という大義のもとに高齢者を排除(絶命)することが成り立ってしまうと、それ以降に何か社会問題があるたびに「社会のために✕✕を排除しよう」という発想になってしまう。

「社会のために」という大義があれば、基準さえ設ければ犠牲を払っても止むを得ないという理屈や文化がまかり通ってしまう。

それは一見すると合理的に見えるようで、実際は独裁である。まるでSF作品のディストピアな世界のようだ。

もしもそのような世界になったとして、何かしらの選定基準のもとに「あなたは社会のために死んでください」なんて言われて、喜んで命を絶つことに応じるだろうか? 社会のためだから仕方ないと思えるだろうか?

誰だって生き延びたいと思うはずだ。

別な聞き方をすると、「自分は選ばれる存在か?」「選定基準に該当せずに生き延びる価値があるか?」と聞かれたらどうだろう?

おそらく「うーん、自分はそこまでの存在ではないかも」と思う人が多いのではないだろうか。しかし、そこで「社会のために死んでください」と言われたら、必死になって自分の存在価値を探すはずだと思う。

このように考えてみれば、高齢者であろうが何であろうが、その理由が「社会のために」であろうが、人間は人間の生き死にをコントロールする権利はないということに気づくと思う。


  
――― 社会問題は、この先もどんどん増えるだろう。
そして1つ1つの問題は、どこかで区切りがつくこともないだろう。

だからこそ、SDGsといった社会活動が広がるのだろうし、事件性を帯びるカタチで社会問題が注目するのだと思う。

社会問題に対して社会活動をすることは意義があると思う。
しかし、社会問題に対して事件性をもった訴えをするのは思慮に欠ける。

それは、事件によって社会問題が注目されたところで、それは一過性の話として片付けられることが多いからだ。それは歴史が証明している。

本当の意味で社会問題を解決したいならば、「社会のために」という建前で対象を排除するのではなく、その対象のあり方も受け入れて社会問題に向き合うことが大切ではないか。

――― 誰かが死んで解決する問題はない。
――― 何かが滅んで解決する問題もない。

社会問題に対して短絡的に解決しようとしてはいけない。
むしろ、曖昧なまま緩慢に前進するものと覚悟して取り組もう。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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