2012年10月12日 若者の道徳規範の必要性について/10月15日 「蒼天にいまだ我が道は見えず」

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2012年10月12日 若者の道徳規範の必要性について


若者の道徳規範の必要性について

埼玉に住んでいたときの上田知事からの返信。

私と同じ塾講師出身だけあって、私のような意見にも理解があるのだろう。

ノーベル賞にIMFで今回の私の提言も空振り・空回りに終わった。

昨日テレビで愛知県ストーカー母娘刺殺事件の報道特集を見た。

何を以ってストーカーというのか?」という野坂昭如の言葉を借りれば、私もストーカーだった。


 メディアで「ストーカー」という言葉が一人歩きし、一人の女のことについて考えることがタブーな世の中となり、少子化も加速した。

 だが、思いつめて人に危害を加えることに躊躇(ちゅうちょ)せず、本当に殺してしまう真のストーカーも確かにいる。


 この国の人は老いも若きもみな人をジロジロと見てくる。


 他者に依存している。

 私はよくジロジロ見られる視線に違和感を覚える。

 カナダなど海外に行くとそれはない。

 このストーカーの若者の心に巣食う他者への「依存」がまず第一の病巣だ。

 しかし、道徳的価値観のない日本なら、「依存」は当たり前だ。

 履き違えた同胞感というか、なれなれしさと言ってもいい。

 コミュニティにおける「連帯」はどこへ行っても重要だ。

 しかし、私は日本人からのその視線に「配慮」や「洞察」を全く感じないから、いつも不快に思う。

 ただなれなれしく「見る」のだ。

 道徳的価値観がなければ人間は動物に等しい。

 海外の人からも見られるが、せいぜい「視認」程度だ。

 向こうの人はパッと見て終わり。

「逆の立場だったらイヤな気持ちになるだろう」と配慮して、執拗には見ない。

 言葉でなくとも仕草で、こちらに対する気遣いを十分感じる。

 日本人から感じることはほとんどない。

 道徳教育されてないんだから当たり前だ。


 殊(こと)に犯罪を犯してしまうような若者には「依存」がすべてだと言い切ってもいいくらいだ。

 若いときはエネルギーがほとばしり、いくらでも走り回れるし、いろんなことに好奇心を持ち、挑戦し、敵対し、何でもできた。

 それが当たり前だと思っていた。

 知恵がなく、社会に認められず、毎日酒を飲みながら孤独に過ごしていた。

 しかし今は、長い年月でいろんな知識を吸収したものの、年を取ると体が動かなくなる。

 都下の田舎の総合病院で診断を受け、1時間のエコー検査を受けるのに2週間もかかる。

 極端な高齢化の影響で予約でびっしりだ。

 2週間はこの体のだるさを自力で乗り切るしかない。

 数年前の尿管結石の時は朝一で近所の内科に行ったのに、すでにどう見ても健康そうな高齢者が並んでいて、9時半くらいまで院内で激痛でのた打ち回っていた。

 今日の日本は道徳的価値観が退廃して、普通の若者、チャラ男でも「オレオレ詐欺して、老人だましましょうよ」と言うようになった。

 女子高校生が娼婦顔負けのミニスカートを履いて援交でこづかい稼ぎをするのも当たり前。


 朝日新聞がマイケル・サンデルの特集を組んだときも、私とほぼ同じ考えのサンデルに対して、非常に冷笑的・シニシズムで懐疑的であり、「そんなの人それぞれの自由じゃないか」という体(てい)で笑い飛ばして紹介していた。

 日本のメディアには、日教組と同じく、道徳教育に対する抵抗が強い。

「道徳 = 国体的 = 戦争」という馬鹿丸出しの三段論法が彼らの中では見事に成り立ってしまう。


 それがマルクス・唯物世代のこの国のバカ団塊世代の愚かさというやつだ。
 彼らは北朝鮮や中共に対して、この期(ご)に及んでも尚同情的に見える。

 しかし、人としての最低限の道徳規範すらない若者が多く過った道に進んでしまうことに日々心苦しさを感じてならない。


 メディアはそれをただ淡々と報道して、その「個人」のみを責めるだけだ。

 しかし、原因のほとんどは若者に道徳規範を植え付けない、そのような風潮になった社会にある。

 年を取って体が思うように動かなくなってしまった私が言いたいことは、若いうちのエネルギーを過った方向に使ってほしくないということ。


 それこそ面白い犯罪ネタを探している、お茶の間の婦女子に対して善人を装った非道徳メディアの思う壺だ。


 やるべきことや進むべき道はたくさんある。

 しかし、社会全体を考えれば、一人一人の道徳規範は必要だ。

 私から見れば、道徳規範のない日本人は大半だ。

 誰もが他者配慮しない世の中に誰が住みたいと思う?


 それは見た目や素振りだけの世間体を言っているんじゃあない。

「良心」の部分だ。

 マニュアル本を読んでマニュアル通りに生きるのをやめろ。

 だが、日本人の大半は多く組織・組織に身を置いて、「個」がない。

 「自分」がない。


 この国の政治家や官僚までもが薄っぺらで、共に語るに値しなくなった。

 だから石原知事に提言を出した。



2012年10月15日 「蒼天にいまだ我が道は見えず」

私が都知事を目指すもう一つの理由

~ワタミさんと自己啓発~


■「政治家は哲学者でなければならない」というプラトンの「哲人政治」の教え。

■民放キー局の地方移転による具体的な日本の景気回復及びそれによる東京の人口集中と環境汚染の緩和。

■これまで書いてきたような自殺やほとんどの犯罪を減らすための具体的でシンプルな理性による道徳的価値観の回復。

■三島由紀夫に共鳴し、石原知事以上に死んでもブレない、毅然とした「愛国心」と「中共を憎んで、中国人を憎まず。」をモットーに自由、人権の普遍的価値を全面に出す姿勢。


■知事選立候補者に300万円を供出させる供託金制度を廃止して、むしろカネに物を言わせた成金や有名人の立候補者乱立を防ぐため、論文+経歴の審査制度にする。たとえば、20人の審査委員のうち、10人以上が立候補に賛成した者のみ立候補を可能とする。参政権の経済格差をなくすため。


 それ以外に私が最年少都知事を目指すもう一つの理由が私の明大の先輩であるワタミさんが知事になることを止めることである。


 石原知事は会見で「日本人は侍の魂を取り戻せ」と言っているのに対し、ワタミさんは石原さんとは正反対の「商人」である。


 私は日本哲学会の末席を汚している以外に、コネもカネも全くないので、ワタミさんが主催する「未来の名刺」に加えさせてもらった。

 しかし、定期的にワタミさんの有料セミナーの誘いメールが来るだけで、これといったメリットはない。

 そして、ワタミさんの社員で自殺者が出たという話を聞いて「これはもう逆に自殺者を出してるんだから知事になる資格はない」と。

 ヤンキー先生同様、これはもう単なるワタミさん一人の「ヒューマニズム」というやつで、「1億分の1のワタミさん一人だけのエピソード」に過ぎない。

 古代のプラトンから現代のバタイユに至る哲学・社会学・社会思想書を読みあさり、万民に訴えかけることのできる諸哲の理性を胸に刻んできた私とは全くちがう。

 ワタミさんの自己啓発って、私から言わせてもらえば「人間の疎外化」である。

 要するにマルクスの言うように「人間を働く機械にしよう」という試みである。 

 資本論以前の古い話だ。

 本来自己啓発って言葉は、サラリーマンとして会社に依存できなくなった今の時代に、個々が独自のスキルやノウハウを取得するなどして自助努力しようという意味合いの言葉だった。

 それがワタミさんへ忠誠を誓う営業ロボットになるという「人間疎外」の言葉になりつつある。そして、当然誰もがワタミさんと同じ気質やパーソナリティではないので、脱落者が出て自殺も出るという寸法だ。


 よく考えたら私と全く、というか、完全に正反対の人だ。


 確かに大半の人間は機械のような作業・ルーチンをこなして生きていかなければならない。

 そして、そこに他者を配慮する最低限の道徳が全くないから今の社会問題だらけの日本になっている。

 欧米やイスラム社会にあるはずの道徳が自殺の多い日韓や中国にはない。

 利益追求と排他性と依存が渦巻いている。


 毎日、時に不愉快になるような仕事をみんなが続けていく中で、他者配慮や理性は最低限必要ではないか?

  それに雇用主がノルマを課して搾取する体制など、私の大嫌いなマルクスの「資本論」以前の化石じみた狂気の話である。

「何を500年くらい時代遅れのことを言ってるんだ、」と。


 哲学者も、だいたいはもうニーチェもルソーもレヴィ・ストロースも「自然回帰」で、ブータンやアメリカの格差社会デモの仕掛け人カレ・ラースンを理想とするような行き過ぎた拡張主義経済を見直す時代に世界が入っている。

 ワタミは古い時代の抑圧的な雇用者に過ぎない。

 橋もっちゃんもそれに近いが、行政改革を標榜している分、まだマシである。

 まして、私は力も人気もカネもないから、泣く泣く支持しているのである。

 私が出馬しても、所詮は「スクラップ・アンド・スクラップ!」で一世を風靡した露出狂と婦女暴行で知られる外山恒一氏との一騎討ちだろう…。

 しかし、日本がこれ以上過った方向に進まないためにも、たとえ私一人でも戦い続けなければならない理由がある―。

 思えば、石原さんが出馬してなかったら、東国原さんかワタミさんが知事になるところだった。

 民放キー局の解体による地方の活性化・景気回復と、道徳的価値観の回復は当然実現できないし、むしろ彼らの知名度による「東京PR、東京PR」で、時代に逆行した一極集中化がますます進む。


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※こちらは2012年10月12日から15日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。


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