2012年07月16日 いじめの本質について /07月19日 その愛のさ中へ…


2012年07月16日 いじめの本質について

 テレビや新聞の主要メディア等では、いじめ加害側の人間のインタビューが全く出てこない。

 このままでは間違いなく、数年後にもいじめが社会問題化するだろう。


 「いじめ」とは、ゲームである。


 かつて加害生徒だった私はそう確信する。いじめは人間的に未熟かつ、エネルギーが有り余っている中学生にとってこの上ない娯楽である。

 さらに言うなら、若者は、否日本人は皆他者に配慮せず主観的に生きている。

 「ドラクエ」や「FF」など、人気テレビゲームのRPGなどでは、「自分が主人公である」というのが前提であり、あっさりやられる敵キャラがよもや自分の側になることなど微塵も考えない。


 小説世代とゲーム世代の違いはまずここにくっきりと現れる。

 

 いじめられる子とは、悪い言い方をすれば、ゴールドや経験値を稼ぐためだけのゲームのモンスターのような存在に過ぎない。

 しかもRPGではレベルを上げるために何度も何度も繰り返し一方的にザコを倒さなければならない。


 言うなればいじめられる子とは、いじめる側のための手段なわけだが、日本で最も有名な哲学者・西田幾多郎はそういう考えを「至誠」とは程遠いとしている。

 否、人を一方的に支配して手段として用いるなど、黒人の奴隷制と同じである。


 「いじめ」がサディズムという概念を超えた、好奇心旺盛な子供たちの集団心理による罪悪感やタブーに対する挑戦という見方もできる。


 「いじめ」とは、加害生徒にとっては毎日がこの上なく楽しく、逆に被害生徒にとってはこの上なく苦痛なものとなる。


 人間の尊厳に関わる重大な問題だが、国体批判イコール道徳批判という、不毛で矮小な戦後の学校教育の体制が築かれ、倫理観の乏しい日本人のみが至る所に生まれた。


 私個人、卓越した倫理観を持っている日本人を見たことは一度もなく、たとえば左翼でなくとも、会社にもいじめがあるくらいで、これだけ道徳的価値観が退廃した日本人そのものにいじめをしないことを期待することの方が土台無理がある。

 要するに、道徳は死んだのだ。

 

 いじめは生まれるべくして生まれた。そして日本人が絶滅しない限り、決して根絶しない。もちろん、自殺も、少子化も、幼児虐待も、うつも、モンスターペアレントもそれ以外のすべての社会衰退も…。

 

 日本人は世界に誇れる列島(劣等?)民族と化してしまったと笑える。 

 悪の根源が何であるのか?

 私たちは一体何と戦っていかなければならないか?を。

 

 ただ道徳のために、人間のために、くだらぬ日本の穏健なイデオロギーをブッ殺すということ。

 ヒステリックな人権ではなく、道徳的な人の尊厳を守るための破壊を。


 純粋な社会活動家カレ・ラースンの主張する、一部の連中に牛耳られたメディアの解放と道徳的価値観の復活を。


 今日もフジテレビで野田首相が6年前のヤンキー先生と同じようにカメラ目線で同語反復を繰り返していたが、全く無意味であり滑稽ですらある。


 日本人は知らず知らずのうちにメディアの非道徳に服従している。少なくともカレ・ラースンはそう見ている。
  

 私個人は宇宙目線で生きているので、滅びつつある小人の小国日本がどうなろうが絶対に私の主張が反映されることなどないので、この際どうでもいいが、いじめ問題の話に戻ろう。

 

 6年前に戻ろう。文科官僚は完全に私を無視し、結局は安倍晋三の下、著名人から成る教育再生会議でくだらぬ標語のみの取りまとめだけで終止した。

 
 これは恐らく壮絶な戦争体験をなされた海老名葉子さんの言葉であろう。

 彼女は教育再生会議の委員に就任された。

 彼女は子供に対するやさしい、性善説の言葉を考えた。

 しかし、私が前述したように、いじめとはもはや麻薬に近い常習性がある犯罪である。

 
 法律を変えて、無力な教育委員会を外してでも、明確な罰則を作る以外ない。

 しかし、この私の主張は完全に無視された。


 私の世代と父の世代では、途方もない環境の違いから、途方もない価値観の違いがある。

 カレ・ラースンもこの数十年で日本は全く変わってしまったと、全く同じことを言っている。


 だがマニュアル官僚や、そのOBや大津市長の女のようなマニュアル弁護士から成る日本の政治家、さらに前述したような道徳を解さないイデオロギーの巨大メディアが私を見出すことは不可能だ。

 

 私一人がどう頑張ろうと日本の衰滅は必然である。


2012年07月19日 その愛のさ中へ…

 道徳が欠落し、行き過ぎた人権擁護が行き渡った今日の法治国家社会・日本においては、たとえ両者の同意があったとしても、成年男性の未成年男子への愛、未成年女子への愛、そして成人男性への愛の道は冷血な法によってほぼ断たれており、社会性を持ち得ない。


 しかしながら、法が成人男性を雁字搦めに縛る江戸時代以前の日本とは、すべての性愛がほぼ無制限に開かれていた。小姓・陰間・衆道はむしろ主流であり、現代日本では一切語られない無垢な人間美への追究が謳歌された、まさに愛の賛歌の時代である。


 「愛される者が愛され、愛する者が愛する。」

  

 然るに今日の法と、自由の曲解、さらには村社会国家の、無思想で表面的な「似非(えせ)モラル」による「性愛の限定」によって、唯一正当であるとされる愛、すなわち「成人女性への愛」の需要は高まり、援助交際やクラブのホステスと…性愛の値は著しく高騰して、その一方で性行為の人件費がかからない、ネット上でのアダルト動画が氾濫を極めた。また、その性のハケ口の避難場として、近年ゲイ文化が著しい発展を遂げている。

「第二団塊世代が出産適齢期を迎えているにも関わらず著しい少子化」という現実を見ても、成人女性のみを愛する意味や意義はもう薄れてきている。


 すべてにおいて破綻を見ている。 

 無論、私の言う愛とは、前述したような性愛自体ではなく、恋に近いような純粋で美しい人間とその心に対する思いだ。しかし、「体目当てなのか、その人間自体を愛しているのか?」という違いが、「愛」という言葉だけでは明確に区分されない。


 要するにこの国の、「見た目が美しい」=「性根が卑しい」成人女性は、前者しかないので、カネを要求する。よって、行き過ぎた法治国家日本においては、「愛」とはなぜか罰されない犯罪行為を前提にしている。

 女側の売春行為は違法だがほぼ容認されている。


 2013年3月10日19:50。この原稿を書いているときに、私の携帯が鳴った。 

 それは出会い系の女性からのメールで、「割とか考えてませんか?金欠でやばくて…」という短い文章だった。

「割」とは、「割り切り」のことで、売春を意味する。

 私のプロフィールには「金銭目的お断り」と書いているが、それでも写真を見て、縁もゆかりもない買春を否定する私に対して、女側から売春を勧誘してくる。


 そして今、このメールをチェックしようと、ほとんど使わない携帯を開いてみたところ、2013年3月14日15:41にメールがあったらしい。

「はじめまして。○○○です。私を二万で買ってくれませんか?土曜日の夜会えませんか?お金に困っていて助けて下さい」。

 10日のメールとは別の名前だ。


 私は女性を装った「サクラ」が皆無とされている最も有名で信頼性が高いとされる出会い系サイトを利用しているが、男側からいくら女の子にメールを送ろうとも、掲示板を出そうとも、ポリシー上「買春をしない」と宣言しているので、1年以上頑張っても全くなしのつぶてだった。

 そして、今はその出会い系を放置していたのだが、そんなやる気のなくなった私にハイエナのごとくたかろうとばかりに、遊ぶ金欲しさに、私の携帯に若い女性からの売春勧誘メールが送られてくるのである。もっとも、それは業者が絡んでいるのかもしれない。

 だが一方で、外国籍の女性が上野駅前で行うような路上売春は警察によって厳しく取り締まられる。 

 その場合、警察官はわざわざ一般人にカモフラージュして、買う素振りをしてから逮捕するのだ。しかし、彼女たちは出身国と日本との経済格差の背景もあってやっている生活売春である。

 私の携帯に来るのは明らかに遊ぶ金欲しさであり、もしくぱ業者であれば組織ぐるみであり、なおさら摘発すべきある。しかし、出会い系の仮想空間の売春は一切取り締まられない。


 出会い系を利用する大半の日本人女性は、外国人の路上売春よりも積極的に、私のように買春の意志がないことを宣言している人に対しても売春を勧誘しているが、一般の日本の女が逮捕されたという話は聞いたことがない。ただ警察の関心事は、現実世界や未成年の女に対する売春行為だけだ。

 よってこの国では、いかなる性愛に絡む犯罪も、その責めを受くべきは男であり、日本の女は完全に野放しなのであって、それゆえ女は脅威なのだ。

 しかし、成人女性はそれゆえに、「自らをカネで値踏みしているがゆえに」、人としては完全に愛する価値がない。そして少なくとも相対的には、他の純粋な人たち、未成年や(いくらでも女性よりも魅力的な人がいる)男性とは、必然愛する価値があるということとなる。


 一方、成人女性は日本という国家を味方につけ、自らの体に値をつけることで、進んで自らの地位を便器と同等に設定している。


 よって際限なき愛に女の価値は皆無。


 特に木嶋佳苗、城内実にとっての眞鍋かをり、高嶋政伸にとっての美元…ら、子のいない、子を真っ当に育てていない70年代から80年代生まれの成人女性とはしつけられていない獰猛で残酷な性質の生き物。


 それら日本で社会的実権を握りつつあるメス犬とは、灼熱の砂漠社会、禁欲生活の日本社会にあって、喉の渇きを癒す井戸水の姿をした、飲むだけで男たちが理性によって積み重ねてきた一切合財を失ってしまうような、悪質な悪意の中の「ハニートラップ」。


 このような者たちに与える愛は皆無で良いのだ。


 橋下市長が知事になる前にホステスとの不倫があったと某スポーツ紙において話題となっていた。売れっ子の人気弁護士の粗探しに躍起になる、マスコミの小人・陰険体質も唾棄すべき商魂であるが、誘ってきたのもホステスなら、関係を切った方もホステス。

 カネも当然もらっているのだろうし、非難されるべきは完全に(恐らくは子のいない70年代から80年代生まれの)このホステスの方なのだ。


 確かに橋下市長はすでに結婚しているので、夫婦関係において、妻がその不倫に不服ならば離婚してもいいだろう。慰謝料も当然発生するし、7人の子のめんどうも見ていかなければならない。


 しかし、私はホステスに騙され、小人メディアにすっぱ抜かれたことで、「人間」橋下徹に対する何とも言えない共感を覚えるのだ。

 このすばらしく人間である、橋下徹以外に日本を任せられる者はいないのではないか?と。

 取るに足らぬ小人しか見当たらない日本において、まっこと正しき純粋な人間を見たような気がしてならない。


 そもそも日本人は劣悪だ。


 悲惨な民族だ。


 だが橋もっちゃん一人だけがそいつらに騙されて陥れられるくらい清らかに純粋なのだ。

 現代日本の、俗悪で隣人愛という概念すらない成人女性を非難して、江戸時代以前の「無限の愛」や、恐らくは美輪明宏以上に人間愛を賛歌する私にとっては、不倫は空気を吸うことでしかない。


 ただ、小人日本人に悪いイメージを与える卑小な空気だ。

 男ゆえに女を愛する。


 だが、愛とは無限に開かれている。


 しかし、この小国で唯一認められているのは、子を産まぬ、隣人愛のない、動物以下の精神の、男たちが汗水流して働いて得た金を強奪する便器への愛だ。


 そんなにも日本社会とは偉大で完全だったか?


  否、今日の日本社会ほど世界や歴史から失笑を買う悲惨なものはないのではないか?


[2020年のオリンピックに、私はイスタンブールを推す!もっとも、私がそう願わなくても、IOCの中では順番的に考えてどこが一番ふさわしいか確信済みであると思うが。社会衰退まっただ中で、原発事故と超高齢化で全く未来のない、しかもつい最近やった日本なんかでやるよりも、トルコでやった方がイスラム教国としては初の快挙であるし、宗教倫理によって「人」としての最低限のモラルも当然あるし、何よりトルコはイスラム教国でありながらも、新しい文化を取り入れてきた進歩的な国家。さらにはアジアとヨーロッパの中継都市として歴史的役割を担ってきたイスタンブールでやることに深い感動を覚える。東京がライバルになりそうなら、イスタンブールの招致委員に諸手を上げて加わりたいくらいだ。時間があったらガチでIOCに手紙を書いてもいい。日本って全く癒しのない、不親切極まりない、殺伐とした、自殺の多い、女性を中心に誰もが人としての最低限の理性を持ち得ないこんなにヒドい国なんですよ~ってね。でも私はあなたがた東京に招致しようと考えている人たちよりもはるかに問題意識と現状認識を持って日本のことを慮っていますよ。5千倍くらいは。]


 私は日本社会を心の底から嘲笑い、軽蔑するものである。


 ニーチェいわく「ただ余計な人たちを生かすために」、未来に禍根を残しながら、地方が災害に見舞われつつ、この国はいびつに回っている。そして中央にももはや美しいものや見るべきものなど何もない。


 日本が「余計なもの」、余計な人、オートメーション化して人を減らせるにも関わらず役所にごっちゃりいるロボットのような人たちや、余計な概念、形骸化した余計な法だけで成り立っていることにみんな気付いているのか?

 そそくさと、組織票で通った政治家が業界のためだけの法を通し、国家レベルの財政赤字や少子化で誰も責任を取らない「議会」や、保身の正当化だけに長けたような、無駄な天下り先ばかり量産する俗物怪物「官僚」や原発事故で言えば東電のような「集団」、日本社会全体で言えば巨大な社会保障費の負担。我々は皆余計な人たちを増やして誰一人責任を取らない責任逃れのシステムだけを構築しつつ、急増する高齢者に押し潰されつつ、あまりにも強大な官僚たちに支配され、そういった債務だけを増やしつつ、複雑化していく社会で、レヴィ=ストロースいわく「終わりなきゲーム」で消費を続け経済を良くしろというのだ。でももうムリだ。


 日本そのものが化け物だ。

「人」は日本社会を基準に物を考えてはならない。

 日本社会が一人一人を食い物にして、いびつな魔物に仕立て上げている。

 必要最低限の法やインフラが整備した時点であとはもうそんなにいらないはずだった。

 はるか遠い未来に向かって、天文学的数字の借金をしてまで「余計な人たち」を無制限に雇用し続けること自体、「余計な人たち」が国を食い物にしつつ、それと同時に国そのものを彼ら好みの意味のない魔物に仕立て上げている。    
 そして、カネを吸い取り未来に禍根を残すだけでなく、どんどん不祥事を起こすトラブルメーカーに。

 行政とはこんなにも人を疎外化(モノ化)し、醜くし、かつ高コストだったか?

 そして、増え続ける膨大な社会保障費の前に、この国民から余計にカネを吸い取る魔物すら完全に押し潰されて圧死寸前に違いない。

 化け物はやがて増税など、国民の負担増を正論と唱え始める。

 でもそれは化け物自体の救済のため?

 そもそも無為無策で道徳をないがしろにし、70年代から80年代生まれの女をしつけず野放しにして、著しい少子化を引き起こしたのはどこのどいつらだ?

 無味乾燥した、過去に書かれただけの「法」だけで、血の通った、変遷する「人」の世を治められると考えていた無思想なロボットたちの末路とは無残なものだ。


 彼らは個で責任を取れない。否、何一つできない。

 私有の概念を除いては常に集団の一部でしかない。

 役人にしろ企業の社員にしろ、形骸化した個のない形骸化した概念でしかない。

 泥船がいつ沈没するという議論に関わるのはウンザリだ。   

 正直もはやこの国に命を賭ける価値はない。もっとも、相手にすらされない私が今さら考えることでもない。

 だが生きている限り、人は人と関係していかなければならない。


 美を追究しつつ、無限の愛へと。


※こちらは2012年2012年7月16日から19日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。


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