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見える世界。想像の世界。

あまり手入れがされていない公園にいる。
地面の石畳の隙間から雑草や苔が生え、
緑が伸び伸びとしている。
手付かずの空気が静寂の音楽を奏でている。
人類滅亡後の世界にいるようだ。

人通りの少ない大学キャンバスへ通じる小道。
座っているベンチから300mほど離れた丘の下のトンネルに
電車が吸い込まれていく。東急東横線だ。

ここからみると単に1つの「電車」だけれど、
当然中には色々な人が乗っているのだろう。

一瞬で通り過ぎるうちに僕のことを見た人もいるかもしれない。
黒いハットを被り、
タイダイのショーツを履いて、
ベンチに座り、
パソコンを開いた、
足の細い、
杖をついた、
奇妙な男。
そんな印象だろうか。

自分が見ている世界はたった1つだけれど、
今僕が想像上の電車の乗客から見られたように、
自分とは違う視点の世界も存在している。
現時点の地球上の人間だけでも79億個ほど同時進行していて、
動物や虫、植物も合わせるともっとだ。

世界は1つではない。

小さい時からずっとこの考えが頭から離れなかった。
僕が電車に乗っているとき、
流れる外の景色の中に小さく人が見えると、
すぐにその人の視点にワープして
そこから見える世界を想像していた。
景色はフィルム映画のようにコマ送りでパラパラと流れていき、
その全ての場面に物語があり、そこに音楽や絵もあった。

道を歩いている時にも同じようなことが起こる。
たまたま通った道にある
たまたまあった家の窓が
少し開いていたとする。
その部屋の中の様子が少しだけ見えた途端、
その中で繰り広げられる想像上の日常が
まるで1本の映画となって脳内のスクリーンに映し出されていた。

大きなビルや団地などを見る時はワクワクする。
建物の壁が透明になり、
それぞれの部屋で繰り広げられているドラマが
ホログラムとなって1区画1区画に映し出される。
仕事をしていたり、
音楽を聴いていたり、
エッチなことをしていたり、
暴力を振るっていたりなど
色々な様子がいっぺんに見えるのだ。
それは大きな生物の体内で
微生物が蠢(うごめ)いているようにも見えた。

でもそう見えない時もある。

つまり「僕」という視点以外にも
もっと細分化された「僕の中の色々な見方」も存在している。
その1つ1つが世界を形成し得るということだ。
そう考えると、「僕の中の色々な見方」も
人間、動物、虫、植物とタメを張る同等の「世界」なのである。

僕が会社員を辞めたのは
そんなことが理由であった。
無数にある世界をもっとながめてみたくなったのだ。
音楽以外にも絵や文章を書くのも全く同じ理由だと言える。
世界は無数に存在し、
その1つ1つが真実であり、
実際に存在している。
こちらが「見る」という選択をすれば
求めていた世界かどうかは別として
簡単にその世界を見ることができる。
求めていたものにするかどうかは
その後の行動次第であり、それもまた選択なのである。

今こうしてる間にも
Osteoleuco(自分の音楽ユニット)のサポートをしてくれている
スタッフの方から連絡があった。
アルバムリリースに際してのインタビューに関することである。
僕がPCをカタカタやっているのと並行して
彼女の世界が同時進行で動いている。
やっぱり世界は1つではない。
この文章も文字ではなく音楽で表すことだってできる。
どう考えても世界は1つではないのだ。

みんなはどんな世界を生きているのだろうか。
無数にあるビジョンの中で完全一致するものは
1つもない。1つもだ。
誰一人として同じ世界を見ることはできないのだ。

そんなかけがえのない自分オリジナルの体験型3D映画を
どれだけ愛すことができるのか。

僕はそのことをいつも忘れないようにしている。
人生を本気で味わい楽しむために。

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