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遊ぶ技術

午前中は作曲&ギターの練習タイムを過ごしてた。
最近ギターが何かと話しかけてる。
気になるし、ついつい触って1、2時間経ってる、
みたいなことが増えた。
何だろうな。とても良いことだと思っている。
自分では意識していないところで興味が湧いているんだろうな。
そーゆー時はその流れを堰き止めないで流すようにしている。

本当はこのnoteは午前中に書き終える予定だった。
でもギターが呼んでいたからそっちに付き合った。
そうしたらなんか良いアイデアがぽろっと落っこちてきた。
「これは作品にできそう。」そんな気がした。
まだ完成していないのに、一個作品が増えたような、そんな充実感。
それがあるから興味が読んでいるところには飛び込むようにしている。
計画や予定は一旦無視して、興味を優先させる。
全てにおいてそれをやると、コツコツと積み上げられなくなってしまい、
作品が生まれず不安になって心が荒んでしまうのでそこはバランスが必要。

僕の判断基準は、
①その興味を実行するかしないかを少しでも考えている場合は、実行しない。予定優先。
②自然と体が動き出してもうそれをやり始めている場合は、そのまま実行させる。興味優先。

こんな感じ。自分の中でルールを決めておくと
いざその瞬間が来た時にグルーヴを失わないで作業を続けられる。

今日のギター練習&作曲は②の方だったので、
絵とパステルは放置してそっちをやってた。
ただただ楽しい時間だった。
2時間くらいがあっとゆうまに過ぎていた。
これは紛れもなく「遊び」である。

完全なる「遊び」こそ究極であると僕は思っている。
それは単なる「遊び」であり同時に技術でもある。

いつもその状態を引き出せるようになりたいといつも思っている。
僕はまだ未熟だから波がある。
「遊び」になる瞬間とそうでない瞬間が交互にやってくるイメージだ。
「遊び」になってない瞬間は「努力」とでも表現するのが良いのだろうか。
まだ自分でも適当な表現が見つかっていないが、
今のところ「努力」が一番近いように思う。

あくまで僕にとって「努力」と表現する行為には、
「自分はこれをやるべきだ」みたいな義務感、責任感が絡んでいる。
それを背負った上で、目標のために力を振り絞る、そんなイメージだ。
「やりたいから」という純粋な興味以外にも、
「苦しいけど一度決めたことだから」とか「辛いけど自分の夢のために」みたいな
自己犠牲的な、軽いナルシズム的なニュアンスが含まれている。

6/27にリリースしたOsoteleucoの2ndアルバム「いっそ死のうか、いや創ろう。」
そんな虚しい「努力」をしながら、本来楽しいはずである音楽をやってしまっている自分へのアンチテーゼを掲げている。
と同時にその状態を「遊び」の状態へ変換させる技術を磨いた練習の場でもあった。

(一見音楽のアルバムのように見えるけれど、これは僕にとっては
自分の幸福を見つける作業であって、心を鍛える修練そのものであった。
シモンにはまたシモンの向き合い方が当然ある。
向き合い方の違う人間が力を合わせて作るから、また面白い。
それは “Osteoleucoくん”という法人、いや音人という新たな人格と言っていいだろう。
だからバンドは最高なんだよねぇ。)

話を戻すと、「努力」の時点で全然ダメなのである。
今朝何気なく勝手に弾き始めたギターのように、
楽しいから「ついつい」やってしまう状態であることが理想。
その状態の時にこそ、自分の本来の力を出すことができる。

以前にも、

・「ノってる?」2022/3/22
・「いいものが生まれる時の共通点」 2022/7/25

という記事で書いたことがあるけれど、
素晴らしいパフォーマンスをする人間は皆「入り込んでいる」。
最近では「ゾーンに入っている」と表現するけど、
それぞれ自分の世界に入り込んで一瞬一瞬を楽しむように振る舞う。
挙動の1つ1つは洗練され、個性を伴ったムーブで味付けされる。
オーバーリアクションになっていたり、
表情が豊かになっていたりする。

大谷翔平、マラドーナ(古い)のようなスポーツ選手、
手つきが異様に華麗なレジ打ちの方、
声のエフェクトがかかり過ぎな駅員さん、
演舞かのような交通整備の方、
そんな例で考えるとわかりやすい。
みんなその行動自体を楽しんでいる。
見ている方も楽しくなってくる。

そこに義務や責任は存在しない。
「やらないと」という自己犠牲も存在しない。
プロの選手であるので、プレイ中以外はもちろん契約や評価といった責任や重圧もあるだろうけど、
プレイ中にそれが頭をよぎっていては到底良いプレーは生まれない。

苦しんで生み出すものにはその魅力があると思うは思う。
特に芸術の分野においてはそれがわかりやすい。
苦しみや悲しみは人の心にグッと迫る。
しかし、その苦しみや悲しみを表現すること、そのこと自体に喜びを感じ楽しんでいなければ、同じようなネガティブの共振動を発生させるだけで、宇宙には何のメリットもない。
結局のところ、楽しみ、魂を喜ばせてあげる行為以外は宇宙の栄養にはならない。生物が喜び、幸せを感じるその瞬間にこそ、宇宙の均衡をたもつエネルギーが生まれるのである。だから遊ばないといけないのである。
「遊び」の中にこそあなたが探していたものがあるのである。

お金のためではどこかで辛くなり、
名声のためでもいつしか虚しくなる。
自分の魂を喜ばせるには、外にあるものではなく、内なるものを育てる必要がある。その為には遊ぶことが必須であり、遊びとはもはや幸福のための技術なのである。

「遊ぶ」ことは難しいことではない。
みんなはじめは簡単にできていたことである。
初歩にして奥義なのである。
でもいつしかできなくなっている。
忘れてしまう。
それこそが人類の次の次元へ進化する際の課題なのだと僕は勝手に思っている。
80億人くらいいる人間のほとんどが
この奥義を使い続けることができたのなら、
人類の文明レベルは何段階もスケールを上げていくだろう。
他人を思いやることでも、慈悲でも情けでも優しさでもなく、
自分自身を喜ばせてあげる技術を身につけること。
PEACEはそこにあると僕は感じている。

遊ぼう!
余計なことは考えるな!
これを読んですぐはまだ意識してしまうと思うから、
あんまり気にしなくていい。
徐々に徐々にでいい。
「遊び」は子供の技であり、それでいて達人の奥義。
簡単であり、難しくもある。
だからすぐにできなくても悩まなくていい。
いつかどこかのタイミングで「あれ、今時間を忘れて楽しんでた^^」
という時が来る。もしかしたらこの文章を読んでくれている間に
そう感じてくれていたかもしれない。
その感覚、その感覚を常に持つのだ。
それができるように修練するのだ。
不安やネガティブに心を許すな。
我々は楽しむために生まれてきた。
喜ぶために命を授かったのだ!

文章こわw どーしたw
熱くなってきてますね。
楽しかったからしょーがないんす^^
時間を忘れて書いておりました。
ちょっと入り込み過ぎて文章がオーバーリアクションになってましたね。
でもそれでいいのです。
素面になって落ち着いた時、恥ずかしくなるような何かにこそ
きっと誰かが振り向いてくれる何かが宿っているから。

はい、なのでみんなも遊んでみてね。
何も考えずにその状態になれたら、
きっともうできないことはなくなる。
楽しみだねー。
というわけで今日も遊びを極めるために修練をするのである。
努力しないようにいれるための訓練。
未熟だからこそやることがあって、暇をつぶせる。
未熟だからこそ楽しいのである。


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