御大の才覚

リーダー、団長、社長、CEO、局長、組長
御大にはどんな人間が向いているのでしょうか

というか、まず御大の存在意義ってなんなんでしょう?

それは<決断・判断>をする人間が必要やから存在する必要があるのです

認知負荷ってありますよね。
人間は決断したりする時には脳にストレスがかかります。
逆に自分で判断せずに
人に任せる、今までのやり方を踏襲するだけなら認知負荷はかかりません
やから多いんですよ、人任せな人間とやり方を変えたがらない人間。

決断や判断ってのは、その後の未来を変える事になります。
よって、その決断の結果には<責任>が生じます。
「いや知らんし」とはできないのです。
やからこそ、ほとんどの人間は自分で決断したがらない。
そもそも決断自体に認知負荷がかかるし、その後の結果にも責任というストレスがかかるので、好んで選択する者が少ないのは当然といえば当然

子供が引きこもりになっても、何も言わずに放置している方が楽。
出ていかしたり、面と向かって語り合うという決断をするよりも、ストレスはかかりませんからね。
が、そのまま決断をしないと最終的には地獄が待ってます。
高齢になっていく親と、
一人で生きてはいけない見た目が大人なだけの未熟者が誕生する
よって、認知負荷から逃げたら上手くいくなんてのはありえないのです

と、いう事で御大に求められる能力は「決断」です。
大半の人間が逃げる認知負荷へと挑戦する人間こそ御大の才覚です

御大の
3流なら決断のストレスに負けて不正したり、自殺したりして逃げます
2流なら1度成功したら、もう決断をしたがりません
1流なら常に<自分の決断を正解>にします
前も言いましたが、1流の人間は<正解を選ぶ>のではなくて
<正解にする>という思想です。
こうして、
御大達は御大にしかわからない決断というストレスと戦う事になるのです。

これ、別に御大っじゃなくても日常でも見られます。
遊ぶ約束をする時、誘う側が御大です
「時間・場所・内容」などを決断しているのはあなたですか?
いつも他者ですか?
例えば、
「時間・場所・内容」にただ同意してついていくだけの人間は
その日がどうなっても責任がありません。
しかし、決断した側はどうしたって「責任」がついてきます。
この違いです

車の運転では
運転手が御大(決断者)です。
助手と後部座席は受動側です。
運転手は命を任されます。
車間距離から渋滞の判断、速度や危険回避、ガソリンや車の状態
全ての責任を負います。

これらを見ても
「いつも決められへんから、他者に任せてます(⌒∇⌒)」
とか
「運転怖いから、だれかに任せる!(^^)!」
とか
って人は御大の才覚があるタイプではありません。

みなさんの日常を改めて思い返した時に
誰が決断をしているのか
誰がそれにのっかるだけなのか
誰がその決断に文句を言うだけなのか
観察するのも楽しいものです
色々と見えてきます。その人間の本質がね

気を付けてほしいのは
それが良いor悪いという次元の話ではないという事です。

自分がどの層の人間かを自覚する事が大切って事です。
どうしても決断できないのもいいんです
認知負荷はストレスがきつい。それによって精神を壊すくらいなら決断を任せるのもいいでしょう。
が、今日の記事を読んだなら思考はもう少し先へ。

決断している人のストレスとの闘いを少し汲めたらそれでいいんです

車の運転なら、運転手には「ありがとう」というほんの1言が運転手のストレスを救う事ってあるんですよ
誘って遊んだ時もね
「今日は色々と決めてくれてありがとう(⌒∇⌒)」とその日の内容はどうであれ
決断してくれたストレスとの覚悟に感謝するのはいいものです

そういうお互いの立場で
お互いを尊重しあえるほんの少しの気持ちが、人間を救うのですよ

改めて、人間が人間を想うようになれるためには
多様な視点が絶対に必要やと感じます(^^

視点がないとね
他者がどのような心境なのか?
全くお門違いな思考になるう危険があるからです

自分のフィルターだけで他人を見るのは
危険すぎます。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?