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人間関係リセット 私の内側はいつもそれを準備している

 人とのつながりは、深くて終わりがないようにすら感じられることもあるけど、実際にはなんの実体もなく、であれば、それを持っているとか捨てようだとか考えることさえおかしな話なのかもしれない。

 ずっと袖を通していないのに捨てられない服がある、というのはよく聞く話である。私にもいくつかそういう服がある。気に入っていたとか、もう一度同じようなものは手に入らないんじゃないかとか思うようなもので、私の場合は買った時の金額などは覚えていないから、高かったから、というのはあまり理由にならないらしい。
 着ないのに収納場所をとっている、という理由でそれらは負債のように、なんとなく部屋の隅にたまったホコリのように、そこにあってはいけないもののように感じられる。折に触れ、さぁ今度こそ捨てようか、と選別のふるいにかけられ、その都度勝ち残ってしまったりして。さらに、残る意味を高めていくが、やっぱり着ることはない。
 まれに、数年ぶりに一軍入りして、出かける時にも堂々と活躍したりすることもある。そんな実績ができるとまた、そんなチャンスもあるかもしれないと、選別の手がゆるむ。そうやってずっと負債は残り続ける。

 そうはいっても、ある日突然、スイッチが入ったように、どさどさとまとめて処分したりもする。服に限らず、昔からずっと持っていたものを、もういいや、とはっきり確信して手放す。なぜ持ち続けていたのか、と不思議に思うことすらあるが、実際のところ、それはずっと部屋の隅のホコリのようなものであったのだろう。

 いつかこうなることはわかっていた。

 人間関係については、もののように所有してはいないから、もっと不明瞭な方法で私の手元から消えたりすることもある。あるいは、はっきりと手放したりもする。
 これは、人間関係のリセット、といわれる。なんなら症候群をつけて、そんなことやっちゃう自暴自棄さ加減、にも名前がついているようである。そういうことであれば、私ははっきりと、その症候群であると思う。多くの場合、やや衝動的なリセットであることが多いらしい。
 私のやり方もそうかもしれない。
客観的に見れば、やや発作的で衝動的であるように思われる。しかし、私の場合は、別にいま急に考えたというものでもない。もともと、ずっと同じ状況でいることを気持ちの奥底で喜べない。

 私は思うのだ。
 あぁ、とどまっている、と。

 それは場所でも人間関係でも同じである。どんなものも、長く続く中で居心地の良さが高まっていくことはあり、基礎がゆるがない時にはより高く跳べることも知っている。しかし、ずっとこうしていてはいけない、と感じる。断続的に変化を伴う場合、この感覚は薄まる。動いている、変化している、と感じることができるからだ。
 しかし、いま、ここで、完全にとどまっている、と感じたら、それはもう部屋の隅のホコリである。だから、手放すのだ。
 急に、突然に、衝動的に。そう見えるかもしれない。それは致し方ない。なぜなら切る、とは一瞬であるからだ。実際に何かのリセットボタンを押すこともあるし、スマホの連絡先なら削除ボタンを押すのだ。ずっとそこにあったように思えるのに、消えるのは一瞬である。
 本当は私の内側がずっと準備していた、それをたったいま行動にうつした、というだけのことなのだけど。

 どの程度、時間や経験を共有した人なのかは、手放した後のスキマの大きさに影響を与えることはある。しかし、意外にも大きさをじっくりかみしめている時間はない。新しくできた空間は、空いたままにはならないものだ。すぐに他のもので塞がる。だから、空虚感とか喪失感はあまりない。なんとなれば、爽快感や開放感は明確に感じたりもする。

 一方的で自分勝手な感覚かもしれない。でも私もきっと、誰かからリセットされている。気づいていないだけかもしれないし、気づかないままであるかもしれない。こちらもその人をリセットしている場合もあるだろうし、もしかしたらこれからリセットされたことに気づいて、え、そうだったの?と驚くことがあるかもしれない。

 でもこれでいちいち傷付いてはいけないし、私の何がダメだったのだろう、などと考えてもいけない。なぜなら、人が人をリセットするとき、その人の何かがダメだったとかいうよりも、自分がその人に合わなくなった、ということのほうが確かな理由になるからだ。相手がどうとかじゃないのだ。私が、その人とつながっていられなくなった、というだけのことなのだ。だから、もしリセットされたことに気づいても、気にする必要はない。
 着なくなった服だって同じだ。服はずっと変わっていない。変わったのは私の方なのだ。服のせいじゃない。服は悪くない。

 漂っていたい、変化していたい、とどまってはいけない。

 とどまり続けることができる人のことは、ある意味で冗談や嫌味でもなく、私は本当に一目置いている。そこで成長し続けること、安定の中に変化を見出せることは、おそらく長い未来を見据えることのできる目を持っているからこそだと思う。

 とどまってはいけない、と言いながら、私は次が見えているわけではない。ジャンプする先を見てから飛び出したわけではない。出てみないとわからないのだ。だから出るのだ。それをしなくても先を見ていられる人にとって、私のとりあえず飛び出していってしまう行動は発作的で衝動的で、そして理解不能であるに違いない。

 そうそう。そういえば。ある程度の頻度でリセットをしないと、リセットそのものが手放したくなるような大仕事になってしまうこともある。大掃除もわざわざまとめてやらずに、時々ちょっと気が向いた時に面倒な掃除をしておけばよいと聞く。手も足も出ないほど溜め込んでしまったら、それは悪循環だ。次の場所へ向かっていくことができない。だから、私はずっと自分の内側で準備している。今だとなればそうする。それだけだ。

 動くのだ、次へ、止まらずに。

 服と同じで、この類のリセットでも選別のふるいになんどもかけては、元に戻すこともある。
それから、手放した後で後悔することがゼロというわけではない。ほんの一瞬、あれでよかったか?と頭をよぎることが時にはある。だが、手放すことができた安心感がそれを上回る。こんなに楽になった。だからやっぱり間違っていなかった。私はそう思う。
 それに、もう一つ、思い切ってリセットしてしまっても心配いらない理由を付け加えておきたい。本当に必要なものは、いくら人為的にジタバタしたとて、簡単に手元を離れていくことはないから安心していい。真に大事なご縁は、蜘蛛の巣を振り払いたくて手のひらをバタバタさせるときのように、どんなに振り回したってぷっつり切れたりはしない。
 そんなわけで、私はリセットすることそのものを躊躇することはない。後に待つ、すっきりした開放感のために、私は嬉々としてそれをやる。

 どうせ最後の最後には、身一つにならなければいけない。私の理想は、全部きれいに片付けて次の場所に行くことだ。

 立つ鳥跡を濁さず。
 来た時よりも美しく。いや、これは違う。これはいつかどこかの図書館のお手洗いで見たのだ。でもまあいい、同じことだから。

 否応なしにそうなる瞬間が来ることを人は知っている。それまではその時のリセットが大仕事にならないように、こまめにホコリをとっておこうと思う。
 私の内側はいつも準備している、その時のために。



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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
noteは始めたばかりですが、素人がつらつらと書き散らしたものを
こっそり?お見せすることができる場所があること
また、それを見てくださる方がいらっしゃることに
心から感謝いたします。
2024年が、みなさんにとって素晴らしい1年になりますように。
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エッセイのマガジン2つ、お仕事関連のマガジン1つ、あります


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