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“正しく書く”という緊張感

 ガヤガヤしている教室でも、習字の時間となれば厳かな雰囲気になる。
 小学3年生からはじまる習字。硯の置く向き、墨液の量、磨りたくなる墨、床に落ちる文鎮の音、半紙に滲む墨、汚したくない服、汚れてしまう手。他の教科では見られない子どもたちの“戸惑い”と“葛藤”が見えてくるのが習字の授業。


右か、左か。陸か、海か。

 硯は右側に、と伝えても、必ず毎時間左側に置く子どもが数人いる(左利きではない)。「右側にあると、書いてる時に手がぶつかる」とか「半紙が右側の方が落ち着く」とか「隣の人がぶつかってくるかもしれないから」と、まぁいろんな理由を述べる。この子たちの言い分もすごくわかる。でも、そもそも右利きで左側に硯があると手が交差することになる。それは書きにくいでしょう。子どもたちはそれもわかっている。だけどまだ3年生。解決策を探す糸口を見つけられないから、選択肢は「左側に置く」しかないのだ。書いている時に手がぶつかったら嫌だから左側に置く。半紙は右半分の方が落ち着くから左側に置く。隣の人が動くとぶつかるかもしれないから左側に置く。ここから、これならどう?と一緒に考える時間がはじまる。

■手がぶつかったら嫌
 ・左側のお手本(教科書)がなかったらいいのに。
 ・教科書を机に置きたくない。
→お手本は前の席の友達の背中に貼る。

 これで解決。この子が自分で考えた解決策。解決ではないかもしれないが、この子にとっては解決だ。友達が嫌と言ったらそれまでだが、まずは「手がぶつかるかもしれない」という心配を一つクリアできた。この日以降、月に一度行われるくじ引きによる席替えでは、「〇〇の前の席になったら、背中に貼るんだよ」「姿勢よくなるね」という会話が聞こえてくるようになった。しかし、半年後、教科書を左側に置く日が突然やってきた。理由は単純だった。「前の席の○○、小さいから手本が椅子に隠れる」と。クラスメイトは笑った。でも、きっとそれだけではないと思う。硯との距離感を感じとれるようになったのだ。

■半紙は右半分の方が落ち着く
 「落ち着く」というのは、人それぞれの感覚の問題だから、解決策を本人に考えさせるのは難しい。そこで、もうひとつ机をくっつけて置いてみた。自分の机の左側には教科書、右側には半紙。そして、もう一つの机には新聞を敷いて、硯と筆と墨液。

 これで解決。本人はとてもご満悦だった。決められた範囲、決められた道具で学習に向かうことはとても大事なことだと思う。ただし、その与えられたスペースをうまく使いこなせない子どももいる。左側に硯を置いていた時は、硯から筆を半紙に移動してくる時に墨がポタポタと半紙についてしまっていたが、右側に硯を置けるようになったことで、墨汁の量をうまく調節できるようになり、ポタポタがなくなり、本人のストレスも軽減された。四回目の習字の時間、「机はもういらない」と申し出があった。理由は「みんな自分の机でやってるから、自分の机でやってみる」と。この日から、自分の机で、硯は右側に、半紙は左側に。そして、椅子を少しだけ左側に寄せて。

■隣の人がぶつかるかもしれない
 と言っていた子は、席替えをして席が変わると硯が右側になっていた。「今日はどうして右側に?」と聞くと、「○○はぶつかってこないと思うから」と言う。なるほど・・・前に隣の席だった子は、「ぶつかってくる」タイプと認識していたのだ。確かに動きが大きくて、周りがあまり見えていなくて、わざとじゃなくてもぶつかる要素は存分に持ち合わせていた。それを見抜いていたかのように、席替え後は立ち上がった時に勢いがよすぎて、後ろの机にぶつかり墨液を床に落としていた。


 もうひとつ、硯の陸(おか)と海について。
 墨を磨る場合は、陸に水を落とし、墨を磨り始め、墨が自然と海に流れ落ちるまで待つ。海で墨は磨らないことが硯で墨を使う時の基本である。
 3年生では、墨を磨るのではなく、まずは墨液を使うのだが、ここで気になるのが“墨液の入れ方”と“量”だ。一人一人の性格が出る墨液タイムは、だいたい3パターンくらいに分かれる。
 1、硯に注ぎ口を近づけて海にいれる。
 2、高いところから海にいれる。(周囲にとびはねる)
 3、注ぎ口を陸に近づけ、海に流れ込む様子を楽しむ。
 量は、元気がいい子ほど「そんなにいれなくても」というくらい出し、繊細な子ほど「もっともっといれてもいいよ」というくらい控え目に出す。前者は、何度も容器を押すので周囲に飛び散ることが多い。後者は、控えめすぎて、最初に筆を墨液につけた時に筆が墨液をすべて吸ってしまい、硯に墨液が無くなる。
 入れ方も量も“要領”が大事だ。面白いなと感じたのは、墨液や絵の具の出し方と量は、給食の盛り付けの仕方や量とだいたい比例している。話はそれたが、硯に墨液を入れるという活動ひとつとっても、ツッコミどころ満載なのが小学生である。


習字の時間は誘惑だらけ

箱に入っている長方形の物体。使い方も分からないのに、磨りたくなる墨。墨液で墨を磨っている光景を何度目にしたことか。床に落ちる文鎮の音は45分間で最低5回聞こえてくる。新しい半紙を配ると、下敷きについていた墨が半紙に滲み、次の一枚こそは提出用にと意気込んでいた心にヒビが入る。汚したくない服。習字がある日は、だいたい黒い服が多いが、習字がある=習字セットを忘れてはいけない、ということが優先してしまい、おうちの人も本人も「汚れてもいい服」にまで気持ちが届かない。ある日、休み時間に汚れてもいい服を学校へ届けに来たお母さんがいた。「もう、習字の日はこの服って決めてるんです」と、持ってきた服には、洗濯しても落ちなかったであろう墨が袖周りについていた。そして、汚したくない手。最初から最後まで手がきれいな子もいれば、どうしたらそんな墨まみれの手になるのかとため息が出てしまう状態の子もいる。でも、みんな手は汚したくないのだ。課題の文字がうまく書けたときよりも、失敗してしまった時よりも、手に墨がついてしまった時のほうが、子どもたちにとっては大変なことなのだ、と子どもたちの様子を見ていつもそう思っていた。


課題の正解


 長々と習字の時間の様子を思い出して書いてきたが、写真整理をしていてふと毛筆で書かれた味のある文字を見つけたからだ。

1月の課題は「正月」

 この日に限らず、筆を持つと震える手。墨液は残ったら勿体ないからと少量ずつ硯に入れ、筆を丁寧に整える。半紙に折り目をつけ、姿勢を正すも、力が入ってしまい「緊張して書けない」と、上の字が大きくなりすぎたり、どちらの字も小さくなったり、擦れてしまったり、本人の納得のいく字が書けない。そこで、「何も考えなくていい!お手本は気にせず、書きたいように一枚書いてみたらいいよ」というと、ニヤッと笑い、深呼吸して書き上げたのがこの「正月」の文字。お手本には沿っていないけど、なんかいい、そう思ってしまった。書いた本人も「こういうのだったら得意なのになぁ。これの方がいいと思う」と言っていた。本人曰く、月の文字は月の形をイメージしたらしい。当時、一緒に組んでいた学級担任も「何も考えなくていいなら、これ廊下に貼るんだけどなぁ」と笑いながら褒めてくれた。結局、このあと2枚書き、本人の納得できるものではなかったが、お手本にならった「正月」を提出していた。

 学習指導要領では「毛筆を使用して点画の書き方への理解を深め、筆圧などに注意して書くこと」となっているし、習字学習の目的はあの子が書いた「正月」では達成していないこともわかる。ただ、ひとつ感じたことは、あの「正月」は誰にでも書けるものではない、ということ。職員室の机の上に置かれた正月の文字を見て、何人の先生が声をかけてきたことだろうか。

 子どもたちのこういう一面を見つけた瞬間に心は躍る。

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