短編小説『なんとはなしにオリビアを聴きながら鳥刺し』
職場近くの居酒屋で一杯やっていたのが懐かしい。あんなに当たり前だったことが、いまは制限されており、件の居酒屋も入口に「緊急事態宣言に伴い、しばらくの間休業します」と走り書きした貼り紙が風雨に曝され、茶色くなっている。
あの居酒屋には、よくアンリさんに連れられて呑みにいった。「りょーくんの食べたいものを頼めばいいよ」と言ってくれ、毎度アンリさんが奢ってくれるのはわかっていたので最初は遠慮していたのだが、回を重ねるといちいち遠慮すること自体が失礼なことに思われ、好きなものを好きなように注文するようになったのだが、オレが必ず注文するのが「鳥刺し」だった。表面が少しばかり炙ってあり、生のタマネギとニンニク、それにショウガを絡めたポン酢でいただく。「鳥刺し」というよりは「タタキ」といったほうがよいのかもしれない。これがオレはとにかく好きで、アンリさんがオレを誘ってくれる時にこの居酒屋を指定するのは、あの鳥刺しが目当てなのだった。
アンリさんと呑んでいるとき、話題にのぼるのは職場のことしかなく、営業の山本はあんなに人を苛つかせるのにどうして仕事を取ってこれるのだろうか、とか、高橋はなぜにあんなにつまらない話を自慢げに話をしてくるのかといえば、オレたちを舐めているからに違いない、とか、まあ、オレの日頃の不平不満をアンリさんは生ビールをぐびぐびいきながら、うんうんそやねーと聞いてくれていた。
オレはハイボールを呑み、鳥刺しの一口一口を噛み締めながら、杯を重ねるごとに声高らかにくだをまくのだったが、他の揚げ出し豆腐だとか、かき揚げだとか、鳥の唐揚げだとか、まぁ、ことごとく揚げ物だったわけだが、そうしたあらゆるアテは口にするくせに鳥刺しだけは、食べているような素振りを見せながら、アンリさんが一口も食べないのをオレは見抜いていて、オレが無類の鳥刺し好きであることを知ったうえで、全部オレに食べさせてあげようというアンリさんの母性にこのまま包まれてしまいたいとさえ思っていた。あの居酒屋の休業の貼り紙を見るたび、オレは鳥刺しよりも、むしろアンリさんを思い出すのだった。日々の業務に疲れ果てていたあの頃のオレにとって、アンリさんと呑む時間は生きる喜びだった。またアンリさんと呑みに行きたいが、残念ながらそれはもう叶わない。
緊急事態宣言下、テレビでは新型コロナウイルスか、暴力沙汰を起こし謹慎処分となっていたくせに他球団にトレードで移籍した途端に戦力になっている中堅選手の話ばかりで実に不愉快なので、サントワマミー、いや、なんとはなしにラジオを付けてみたところ、パーソナリティが話していたことが気にかかった。
「夏は特に食中毒に気をつけないとあきません。生肉が特に危険で、カンピロバクターっていう細菌が食中毒を引き起こすことが知られています。ほら、最近、生焼けの鶏の唐揚げが人気やーみたいな話を聞くんですけど、鳥の生はほんまに危ないです!これは専門家の方も声を大にしておっしゃってますので、くれぐれもお気をつけいただきたいと思います」
オレが包まれたいと思っていた母性なんぞ、そこにはなかった。オレは所詮、アンリさんの幻を愛していたに過ぎなかったことを知らずにおきたかった。なんとはなし、目の前が暗くなる。サントワマミー。
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