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熱と誠を失った人たち

令和3年5月14日の日記
浅田次郎さんの『憑神』を読んでいます。幕末の江戸、徳川家康公の時代から代々受け継がれている影武者用の鎧兜の安全を図り、見張り番をする御役を担うことになった別所彦四郎が、めちゃくちゃ真面目に仕事をこなすのを見て、呆れた疫病神が「鉄砲やら大砲やらを打ち合うこのご時世に影武者の使う防具の番を真面目にやってても仕方ない。こんな仕事は適当に手抜きしとけばいいのに」というようなことを言って諭すのですが、「わしがまちごうているのではあるまい。世間の仕組みとやらがまちごうているのだ。何ごとも手を抜いて、適当にやっていれば万事安泰なぞと、そんな理屈が罷り通ってなるものか。」と一蹴する場面があり、痛快でしたが、同時に、まもなく無くなるとも知らずに幕府のために奉公する別所彦四郎が憐れにも思えるのです。

どーせこんな仕事はいつか無くなるものなのだから、給料が貰えるなら、貰えるだけ貰っておいて、テキトーに仕事してるフリだけしておけばいいだろう。という雰囲気のなかで別所彦四郎のように生真面目に仕事に打ち込むのは思いのほか、難しいものです。どちらが正しいのかといえば、本来なら彦四郎のほうであるべきなのに、世の中の道理を知らない変わり者とみなされてしまいます。

『白い巨塔』で誤診したとして財前教授が訴えられた裁判では、財前が勝訴するために関係者たちが挙って財前側に付くなか、頑なに医者としての矜持を守り真実を突き止めんとしたがために大学を辞めることになってしまった里見がやはり、変わり者扱いされておりましたが、はてさて、本来ならどちらが在るべき姿なのでしょうか。

今日の産経新聞『産経抄』にペスト菌を発見し、破傷風の治療法を確立した"近代医学の父"北里柴三郎が後輩の研究者に贈った言葉が紹介されていました。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する。もし行き詰まったことがあるならば、それは熱と誠がないからだ」。

「斜陽」と呼ばれる世界だとしても、なぜ「斜陽」なのかといえば、「斜陽」だと諦めている人は、それを時代のせいにしたりしますけど、結局のところ、よくわからない「世の中の道理」に倣うことで、いつのまにか熱と誠を失ってしまったことで自ら陽を沈めてしまっているってこともあるんじゃないかと思います。

なんか似たような経験を、ここ数年は毎年しているぞ、と思ったのはプロ野球観戦ですね。好きなチームのことは最後の最後まで必死に応援するのが本来あるべきファンの姿だと思いますが、序盤で躓いてしまうと、早々と「今年はもうあきらめました」なんて言って、早々と自ら敗北宣言をしてしまう。それによって冷静さを保ちたがるのですが、ああやってファンの多くが早い段階で熱と誠を失ってしまうことも、ひょっとしたら選手たちのモチベーションに影響してしまうのかもしれません。この場合、「誠」って何なのか、わかりませんが。ああ、しかし、ネットで監督や選手の悪口を書いて溜飲を下げたりするのはヒジョーに誠を欠く行為ですね。あれの場合、熱の使い方を間違えています。

最後の最後まで諦めないのって、精神的にも肉体的にも疲れるんですよね。だから、早い段階で投げ捨てちゃうほうが楽ですし、なんか最後の最後まで悪あがきすることが美しくない、と感じる人も多いんだと思います。毛髪の薄くなられた御仁(いわゆるハゲ)が、聞いてもいないのに自らの頭髪をネタにして話し出すのも、根本は同じではないかと思います。

私はといえば、熱と誠を失った人たちを軽蔑する反面、同情もするし、共感をする面もありますが、そういうなかでも、置かれた場所で花を咲かせようとポジティブに生きようとする人のことが好きで、応援したくなるし、自分もそうなりたいと思います。思うだけなら簡単なんですが、なかなか難しいものです。

そういえば、熱と誠とか書いてたら、THE YELLOW MONKEYの「悲しきASIAN BOY」みたいやん、と思ったんですが、あれは愛と誠でしたね。中年がつぶやいてみました。失礼しました。


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