見出し画像

改めて小説と詩を読む意義を考えてみる



0.はじめに

「読書離れが深刻化している」
「古典を読むべきだ」
「もっと本を読もう」
読書に関してこのように言われます。
これは私の感覚的な意見ですが、一般的に(本が好きな人以外にとっての)読書は、
「何となく良さそうな行為だけど、とっつきにくい」
ものだと思われている気がします。
また、「ビジネス書や新聞は読む意味がわかるけど、小説や詩はわからない」という人もいるかもしれません。
実は私も大学1年生の序盤、なぜか小説を「ただの作り話」として軽蔑し、実用書一辺倒になっていた時期がありました。これに関しては『若きウェルテルの悩み』を読むことで一応克服できました。

しかし、私のプロフィール欄の書籍を見てもらえるとわかる通り、私は結構「詩」を苦手としています。たぶん、散文脳といいますか、「詩的感性」が欠けているのかなと感じています。
散文も詩も両方得意な人もいると思いますが、「詩タイプ」の人、「散文タイプ」の人がいて、一方は得意だけど多方面は苦手、という人もそれなりにいる気がします。

そこで今回は「詩」や「小説」を読む意味、つまり読むことで「何が得られるか」について考えてみようと思います。


1.小説の効用

まずは小説から見ていきましょう。小説の最大の効用としては、
「物語を通じて他者や世界について知ることができる」
があると思います。

小説は情報量が多い表現形式です。登場人物や情景を細かく描写するため、具体的なイメージを持ちやすいです。
他の文芸ジャンルと比較してみましょう。
戯曲(本)はセリフだけですべて表現します。つまり、情景や登場人物の表情が描写されることは少ない。
詩は自由詩であれ、定型詩であれ、漢詩であれ、基本的に熟語や形容詞の組み合わせ、つまり単語を上手に使う表現です。具体的というよりは抽象的、論理的というより感覚的色彩が強い。
これはどちらが優れているという話ではありません。戯曲や詩も優れている点はあります。
ただ、この中で人物造形を細かく行える形式は小説、ということに異論はほぼないと思います。そしてその人物を通して物語世界に入ることで、世界について知ることができる。
これが小説の特徴だと言えるでしょう。
小説を書く場合の効用は、語彙力や表現方法が豊かになることです。文章だけで読者に伝えなければならないため、的確な表現を選ぶ力が身につくでしょう。ストーリー構成を考えることになれば、読者を納得させるために「論理的な」物語を書く能力も鍛えられるはずです。


2.詩の効用

次に詩の効用についても見ていきましょう。先ほど少し述べたように、それは
「抽象化能力」と「感覚(センス)」の強化だと考えられます。
たとえば、次の有名な定型詩を読んでみましょう。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

もし、これを散文で書いたとしたら、
「古池に蛙が飛びこみ、ポチャっという水の音がした」
のような文章になるでしょう。
この文章をより抽象化して風情を感じられるようにしたのが先に書いた「詩」だと思われます。
さらに、この詩には固有名詞が使われていません。古池や蛙の大きさ、水の音色、周囲の風景など、散文なら描かれていそうなものが描かれていない。それはつまり、読み手のほうで自由に想像できる、ということでもあり、詩の自由度の高さを物語っている気がします。
自由詩の場合は散文に近くなりますが、それでも散文よりは情報量が少なく、抽象的になりがちです。やはり、想像の余地は大きい。

加えて詩には「音楽性」があります。
たとえば、ある音楽を知るためには書かれた楽譜を読むより、実際に聴いたほうが早いでしょう。それと同様、詩も本に書かれているのを読むより、声に出したほうが理解しやすく、親しみも湧くと思います。
私を含め、詩が苦手になってしまう人がいるのは、おそらくこの点を充分に理解せずに学校で詩を教えていることにありそうです。
詩は「頭で理解すべきもの」というより、「心で感じるもの」に近い。だから、修辞法や形式を暗記させたり、感想文を書かせても詩の力は伸びないし、むしろ嫌いになる可能性がある。音楽の感想を言葉で表現するのが難しいように、詩の感想も言語化しづらいのではないか、そう思えます。
これはつまり、詩には
「言葉にできない気持ちを表現する力」
があることの証左でしょう。

詩を詠む人は抽象化能力が高く、自分の言いたいことをなるべく凝縮し、ポイントを絞り、わかりやすく伝える力、言うなれば要約の力、本質を抽出する力に長けている気がします。詩に親しむことで、こうした能力は鍛えることができる。
反対に、筆者のように「詩的感性」が乏しいとどうなるか。自分の言いたいことを散文でしか表現できない。しかも、それはしばしば冗長だったり、説明口調でわかりにくかったりします。相手に伝わらないリスクが出てくるわけです。
よって、詩的感性を育むことで、より表現の層が深まるのは間違いないと思います。
実際、ゲーテやヘッセは詩も書く小説/戯曲家ですが、文章から詩的表現が伺えます。素人目に読んでも、美しい描写が多い。それはまさしく彼らの詩的感性の豊かさによるものでしょうね。


3.文芸に親しむ場合の注意点

さて、小説は論理的思考・説明能力の強化と(人物を媒介にした)世界への理解、詩は抽象化能力やセンスの強化ができる、と考えてきました。
ここでは、小説や詩に触れるさいの注意点、いわばリスクについて言及していきます。

まず、スノビズム(虚栄心)の問題です。平たく言えば、
「こんな難しい作品を自分は理解できていて偉い。理解できない奴とは違う。あいつらはライトで大衆的な作品しか楽しめない」
というエリート意識が出てくる問題です。
芸術や文学に足を踏み入れた人なら誰しも一度は経験があると思います。
しかしこのような意識は傲慢不遜であり、間違っています。この発想では文学や芸術で精神を高めるどころか、逆に貧しくなるだけでしょう。
こうした症状に悩まされた場合は解毒剤として、子どもの頃好きだった絵本やエンタメ小説を読むことをおすすめします。

ちなみに文化についても同じことが言えます。
たとえば、東北地方の芋煮論争。
別に、自分たちの芋煮が一番だと思うのは構わない。他の地域の芋煮が好きになれないのも別にいい。
ただ、相手の芋煮を理解しようとすらせず、内心で軽蔑し、自分たちの方が上だと宣っているのだとすれば、それは正しい姿勢とはいえません。リスペクトのないディスりはただの害悪、老害といっても差し支えないでしょう。
自分たちの文化を誇りに思うことと、そのために他者の文化を貶めることは違います。むしろ、自分たちの文化が誇りであればこそ、他の文化も大切にする心が生まれるべきではないでしょうか(まあ何だかんだ言って、当事者たちは実はツンデレでどれも好き!という人も多そうですが・・・)。

後は詩人への注意点としては、散文による表現力もある程度鍛えるべき、ということでしょうか。
先日ネット上で拙い表現の文章(散文)を読みました。個々の表現にはおもしろい、あるいは光るものも感じたのですが、文章全体の繋がりが悪く、文章というより単語をただ好き勝手並べただけのものでした。
そして何より、書いた人の心の狭さが滲み出ていました。
普段から文章を読み書きしている方ならわかると思いますが、文章には驚くほど性格が反映されます。また、手書きの文章の場合は字体、漢字やひらがなのバランス、これらの要素にも知性や、思いやり(読みやすく書こう)も表れます。

たとえ何かを批判したり、ブラックユーモアを交えて揶揄する場合であっても、攻撃的になりすぎないよう、工夫がされています。つまり、その人自身に備わっている朗らかさが攻撃性を中和してくれるのです。彼らにとって批判は手段にすぎず、改善という希望、目的を持っているから、叩くことだけでなく、提案することにエネルギーを使うのです。
しかし、朗らかさを持たない人は自分の不満を稚拙に、欲望のおもむくままに書き立てます。だから文章に美しさがないし、きちんとした主張も展開できていない、ということが起こる。
こういう方々は小説的な文章力、つまり論理的、具体的に説明する力に欠けているのです。
だからたとえ詩人であっても、散文による表現はできたほうがいい、と私は思います。


4.おわりに

小説的(散文的)な考え方と、詩的な感性。
どちらも大切な能力であり、社会生活においても、私生活においても役立ちます。
どちらかに偏っているなと思った方は、もう片方の力を鍛えてみてはいかがでしょうか。

先日、岩波新書の『漢詩』を買いました。
もともとは以前書いたゲームソフト「白中探険部」に中国の話(「史記」徐福伝説など)が出てくるため、中国の文化・古典を理解しようと思って買ったものです。
やはり漢詩はリズムこそ心地よいのですが、意味がよくわからず、苦戦しています。
ただ、今回書いたように、理解することにこだわりすぎず、感じ取ることに重点を置いて親しもうと思います。そもそも、大昔の中国人が書いた詩を現代の日本人が100%理解するのは土台無理な話と言えます。理解できる範囲で理解し、後は感覚的に親しんでいこうと思います。

それでは、良い本との出会いを。
ご精読ありがとうございました。

興味を持った方はサポートお願いします! いただいたサポートは記事作成・発見のために 使わせていただきます!