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【随想・随筆】恋の病の荒療治/技術発展による貧相な恋愛模様

久しぶりに恋の病に罹患した。
・・・と言っていいのかは不明だが、最近出会ったあるひとりの人物が、私の意識に強く残ったらしい。
まあ現状、初期症状が多少出ている程度で、そんなに大問題というわけではない。
とはいえ、かつて大学時代に似たような病にかかり、迷走した「前科」が一応あるので、初動の時点で何かしらの対策を打っておく必要はあるだろう、と考えた。

一番手っ取り早い解決法は、二度と会わないことだろう。いくら印象に残る人物だったとしても、その記憶が時の流れによって忘却の河へ流れていけば、もはや意識に昇ってくることもない。
ただ、その人は再会する価値がある人物のようにも思える。一回しか会っていないのでよくわからないが、そんな気がするのだ。
となると、次善の策としては
「所詮大した人物ではない」
など、相手の価値を下げるよう頭の中で反芻することくらいか。
いささか不謹慎な気もするが、恋の病の危険性は一応知っている。こうした荒療治とも思える方法で抑え込まないと、火災旋風のように燃え上がるおそれがあるのだ。
あるいは、何度か会ってみるうちに、次第に幻想が崩れ、もはや恋心を掻き立てる存在ではなくなるかもしれない。ただ、実際どうなるかは不明だが。

恋愛という枠組みは既に捨て去った私だが、たまにこうして「恋心」を掻き立てられることがある。必要以上に親しくなろうなどと邪念を増幅させるつもりは毛頭ないが、相手が持つ何らかの「美」に触発され、私の意識に鮮烈な印象を残すことがたまにあるのだ。
いわゆる「感じが良い人」はそこそこの確率で会うこともあるが、それに加えて「恋心を惹起する」ことはめったにない。今回はその例外だったのかもしれない。

中学時代、なぜか携帯を持ちたがり、実際持っていた同級生がやたらと多かった。当時も違和感だらけだったが、今から考えても実に狂ってるとしか思えない。中学生風情が携帯なんぞ使いこなせるものか、と。大人ですらろくに使えてないというのに。人類には早すぎる技術だと今でも私は考えている。
ちなみに私が携帯を持ったのは大学生の時だが、別に欲しいとねだったのではなく、親が持ちなさいと言ってきたからしぶしぶ持っただけだ。
当時から私は携帯の胡散臭さを見抜いていたようである。この点は先見の明があったといえよう。

下半身的欲望が増幅される中学時代に、携帯という悪魔の利器を手にしてしまった彼らは、異性と電話やメールで意志疎通をするようになってしまった。言うまでもなく、そんな軽薄なツールによる意志疎通など、直接的コミュニケーションの価値の足下にも及ばない。
相手の顔を見て話す、ここでは表情やジェスチャーが、相手に伝わる文章を書く、ここでは語彙力や文法が重要となる。
コミュニケーションというのは本来、身体的・知性的なものだ。言葉がわからなければ辞書を引いたり、図書館で調べたり、親に聞いたりする。その過程でもコミュニケーションが生まれうるし、必然的に身体や頭を動かすことになる。
その総体がコミュニケーションであり、場合によってはそれが恋となり、恋愛となる。
メールやLINEや電話による軽薄なやり取りなど、恋愛行為の名に値しないだろう。私の時代ですらそうだったのだから、今はもう本来的な意味での恋愛など存在せず、単なるコンテンツとしての恋愛があるだけではないだろうか。
以前発明した「国民総会話量」という概念。まさしく、情報通信の量こそ増えたが、会話が減り、そこにあったはずの詩や工夫が消え、通信の質は落ちてしまったのだ。

そう。現代の恋愛など、昔のそれに比べれば児戯のような軽薄なものでしかない。それもそのはずだ。通信・交通・医療・食糧生産技術が発達していなかった時代であれば、相手に簡単に会うことも、連絡を取ることもできなかっただろうし、そもそも疫病や戦争や飢餓で死ぬことも多かった。社会や親の妨害だってあったろう。恋が成就する前に人生が終わってしまうこともあったに違いない。
だから、そういう時代の恋愛なら、当の本人たちも本気にならざるを得なかったのではないか。親の反対に遭い、戦争が近づいているとなれば、ふたりで駆け落ちするしかない、ということもザラにあったと思う。
ところが、現代人と来たら便利さにかまけ、そうした苦難の時代への想像力を失ってしまったように見える。連絡が少し遅れただけでキレる人や、絵文字が少ないとか不満をこぼす人なんかがその典型だろう。

実は、かつて恋の病にかかったときも、それと似た愚行を私は犯していた。
いや、別にキレたりはしなかったし、相手に不満をぶつけることもなかった。
しかし、その人とのLINEでのやり取りが、なんというか・・・所詮ツールはツールでしかない、というお粗末なものだったように今では思う。連絡先など、そもそも交換すべきではなかったのだ。直接的なものこそが現実的であり、会って話すことが基礎の基礎なのだ。あんな短い文章でやり取りするようになってしまったらおしまいである。そこには詩が生まれない。単に情報を交換し、消費し合うだけである。創造性がないのだ。そこには。
再現不能な一回限りの出会い。二度と会えないかもしれないという緊張感。それがあってはじめて、恋は恋として成立するのだろう。私がかつて経験したのは恋ではなく、よく似た別の何かだった。恋に携帯など不要、むしろ邪魔だったということだ。

携帯に限らず、最近の私は利便性・快適性・効率性・多機能性といったものに反発している。それらが私の生活、とくに精神の豊かさをどれだけ簒奪していったかを考えると、安易に肯定しがたいものがある。物質的には貧しくても精神的には豊かだったはずの、私が生まれる前の時代に、回帰しようとしているかのようだ。もともと懐古趣味はあったし、その傾向が最近、強まったということか。
軽薄な恋愛、紛い物の恋など、もうするまい。恋心が生じても、それを科学技術で満たそうとはせず、あくまで本来的・自然的・直接的な方法を用いて、「美」を認識する。

かつて恋の病に冒されて苦い経験をした私だが、科学技術への不信感が募った今なら、全く違う結果を手繰り寄せることができるかもしれない。
もちろん、目的はあくまで「美」の認識だ。下半身を満たそうなどという気持ちは毛頭ない。そんなものは高校の時点で見切りをつけている。最後に残るのは「教訓」であり、官能は時の流れには耐えきれず、消滅する。

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