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人の愛の形 『君の名前で僕を呼んで』を観て2

 僕は同性愛ものの映画が好きだったりする。より正しく言えば、同性愛がテーマとされているのではなく、あくまでも世界観の中の一要素として同性愛が存在している映画が好きだ。

 別にカミングアウトでもなんでもない。僕はヘテロセクシャル(異性愛者)でありホモセクシャル(同性愛者)ではない。性的欲望が向かう人、将来的に結婚して家庭を持ちたいと思う人は女性だ。僕自身は“男性”であることを自認したうえで“女性”を好きになる。

 LGBTが話題となる昨今でありますけども、それにかこつけているつもりはない。性や人格など、「私とは何か」という自己同一性に関わる話題が単純に好きだ。また、自己同一性とは自分の中だけで成立するものではなく、自分と他人の関わりの中で成立するものだ。そこがまたおもしろい。 結局のところ、自分というものに「ゆらぎ」が生じる物事に興味を持ってしまう。だからこそ、「性」が要素として世界の一部になっている映画はおもしろい。(とは言いつつも『ブロークバック・マウンテン』や『ブエノスアイレス』のような名作をまだ観たことがなく。ゆえに僕はにわかの類かもしれんな)

 また、そうした映画は一般的な恋愛映画よりも愛について丁寧に描いているような気がしてならない。愛の本質へと一歩近づいているような、そんな気がしている。男性や女性といった性差を超えて、人間としての愛とは何かとの訴えがある。余計な人間的要素が削ぎ落とされ、「人」として向き合わざるをえなくなったとき、人は何を見出すのか。それが愛であればなおさら。

 男性相手であれ、女性相手であれ、関係性の度合いとともに感情の動きも揺れ動くものだ。友情や恋愛感情の線引きなんてかなり曖昧なものだ。極論、そこにあるのはある一線を越えるかどうか。その一線の先に迎える結果としてどういう関係性になるかというだけのもののような気もする。

 生まれつきの身体的な性としてのセックス(Sex)、成長する過程で自覚的に育まれていく社会的な性としてのジェンダー(Gender)。人の性自認にはこれらの二つの「性」が密接に関わっている。僕らは当たり前のように男であるか女であるかを自分で決めているし、それに基づいた行動をしているけれど、意外とその性自認なんて突き詰めてみれば脆く曖昧なものである。

 自分の性が大きく揺らぐ青年期の恋を描いたという意味で『君の名前で僕を呼んで』の功績は大きいと思う。自分は女性とセックスできるけれど、純粋に好きになったのは男性。自分がどちらの存在なのかはっきりしない。映画の中ではエリクとオリヴァーがバイセクシャルなのかホモセクシャルなのか明確には描かれていない。むしろ自分の性自認なんて曖昧なままでもいいんじゃないかとも思えてくる。(ヘルマン・ヘッセの作品では、友情とも恋愛ともとれる曖昧な“友情”が描かれていたりする)

 互いに忘れられない一夏の恋をした。決して誰も経験できないような。彼らにとってそこには“ホンモノの愛”があったのかもしれない。


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