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かっこよさについてちょっと考えたんだ

 かっこよさってなんだろうと考えることがある。
 美男美女であること、容姿に優れていること、センスがよい服を着ていることなどあげればキリがない。
 しかし、本当にそうであることがかっこいいことなのだろうか。広告の世界そのままの髪型・服装・暮らしをしていれば、それはかっこいいことになるのだろうか。容姿端麗で良さげな服を着ていてもかっこ悪い人はいる。逆にTシャツ・ジーンズ姿でもかっこいい人はかっこいい。そして、仕草や振る舞い、醸し出る雰囲気、生き方にかっこよさを感じることだってある。

 ある友人がこんな話をしてくれた。
 バーの奥まったフロアに、ヒップホップやR&Bといったブラックミュージックを聞いてそうなファッションに身を包んだ人たちがいた。誰か知り合いがやってくると、アメリカ映画やミュージックビデオでよく目にする“典型的な”黒人挨拶をしていたそうだ。ハンドシェイクをする、胸を強く当て合うハグをするといった具合の。誰しも、自分が拠りどころとしているカルチャーの真似をしたくなるものだ。それが単なる真似では飽き足らず、身体所作に落とし込むことで、さも昔から自分はそうしたルーツを持っていたかのように振る舞う。グラスのお酒を空にしながら仲間と談笑する。それまではよくある光景だ。ただ、そのあとがいけなかった。それから皆タバコを吸い始めたと思ったら、誰もがアイコスを吸っているではないか。それが彼をひどく幻滅させた。友人はその人たちをもう「ダサい」としか見れなくなってしまった。そして、店内をよく見てみるとそこにいる誰もがアイコスを吸っているではないか。「アイコスなんてプリウス乗ってるような人が吸うものでしょう」と友人はぼやいていた。その表現は言い得て妙だなと思えた。

 勘違いして欲しくないが、アイコスを吸っている人々をダサいと彼は言いたいのではない(喫煙者と禁煙・嫌煙者の関係性を良き方向へ見直す動きのある昨今、煙と灰の出ないアイコスは画期的な商品だと思う)。中途半端なスタイルをしている人々をダサいと彼は言いたいのだ。どうせならもっと突き抜けろという。おそらくバーでたむろっていた人々は、自分が取り入れているカルチャーに飽きがきた瞬間、衣服を脱ぎ捨てるのと同じくカルチャーさえも脱ぎ捨ててしまうだろう。それだけの「軽さ」が見えてしまう。その軽さが見えてしまうとき、人はダサいと感じてしまうのだろう。

 そういえば、セックスピストルズのような格好をしていればとりあえずパンク好きを名乗れるような、そんな“ファッション・パンク”を大学の友人は批判していた(一言にパンクと言えど、ピストルズのような“いかにも”なものから、ラモーンズのようなライダース&コンバース、ジャムのような細身スーツもいるし、その時々の音楽性で服装を変えたクラッシュだっているわけだ。ファッション一つでパンクカルチャーを語るなんて狭いもんだ)。純粋にパンクを愛し、ライブも行っていた彼は「にわか」が鼻につくようだった。そんな彼のファッションスタイルは20歳には見えないほど落ち着いていた。本人曰く「高校生でやんちゃしたからもう飽きた」らしい。ファッションでパンクを語ることをやめて、音楽そのものでパンクにかぶれていることを示したかったのだろう。

 結局のところ、かっこよさよとは「スタイル」を持っているかどうかであり、同時にその人の「ルーツ」を問われるものだと思う。当然、何かのかっこよさに惹かれたとき、人は模倣することから入る。服装にせよ所有物にせよ、最初は身につけるものか、仕草の真似をすることから始まり徐々に「本流」へと近づいていく(もしくはそういう欲望を抱く)。最初は「にわか」かもしれないけれど、その世界観にどっぷりと浸かってみるうちに少しずつ自分が憧れていたスタイル、そしてその人にしかないスタイルができあがっていく。服装だけではない仕草や雰囲気を含めた全体的なかっこよさは、憧れていた世界観の模倣をしているうちに、自然と自分の生き方や考え方と混ざっていった結果としてできあがるものではないか。そんな仮定を今思いついた。他人から見える表面の世界が、内側の見えない世界、つまりはルーツとつながっていく。
 
 今のところ僕の頭ではこの程度しか答えが出ない。まだまだかっこよさについて問いが生まれそうだ。

 しっかし、かっこいい人はいくつになってもかっこいいよ。男性女性関係なしに。

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