見出し画像

「一瞬を切り取る永遠である」という言葉にエモさしか感じない

写真を撮ることが趣味になった。

といっても、写真撮影に熱中したのはこれが始めてではなく、小学生のころにも一度ハマっていたことがある。

あんまり記憶には残っていないけれど、父親に取り方を教えてもらったり、一人で写真を撮りに行ったりと、とても楽しかったことは今でも鮮明に覚えている。

その後は中学生になり手放してしまったが、通っていた専門学校で雑誌を作ったことをキッカケに、ここ最近、再びカメラに没頭するようになってしまった。

少し話は変わるが、僕はライターをしている。そして書くことに詰まると、僕はよく散歩に出かける。

最近ではその散歩にもカメラを持っていくようになった。

カメラを持っていると、自然と様々なモノが意識にうつる。名前も知らない花や、空高く飛ぶ蝶、見上げないと気づかない桜、ただの道でさえ、たくさんのキレイがあることに気づけるようになった。

撮った写真は、見るたびにいろいろなことを思い出す。苦戦していた問題の解決方法とか、覚えておこうと思った出来事とか。これまでの軌跡を振り返ることのできる、まるでメモ帳のよう。

そんなことを考えているうちに、頭が冴えてどうにか原稿を進める方ができている。


写真について心に残っていることは、専門学校の先生が教えてくれた言葉だ。

「写真とは、一瞬を切り取る永遠である」

本当にその通りだと思う。

その日、その場所で、その時間、奇跡みたいな、たった一瞬。「綺麗だ」以外の感情が消える一瞬を、カメラは切り取っておさめることができる。

鮮やかすぎる夕焼け、楽しかった旅行の思い出、息をのんだ景色だって、いつでも見返せるし、感情はひき戻される。

懐かしい気持ちと、シャッターを切った瞬間の感動と、前後の記憶、戻れないという事実がごちゃ混ぜになる、何とも言えない気持ち。あの気持ちはきっと写真でなければ体験できないだろう。

写真はいわゆる“エモい”を究極的に突き詰めたものなのではないだろうか? と思っている。“エモい”とは、エモーショナルな気持ちを若者言葉で表したもの。

見ただけで、それぞれが持つ過去の記憶に、時代も場所まで関係なく戻ることができる。

考えれば考えるほど、写真の可能性のひろさに、ただただ感動するばかりだ。
 


「写真とは一瞬を切り取る永遠である」というのならば、やりたいと思っていることがある。

バイクを買って、小説や俳句の題材となった風景を写真におさめに行く、というものだ。

土地や風景について想いを馳せ、作品をつくった作者の気持ち——例えば、美しくそびえる松島の姿に言葉を失った、松尾芭蕉。例えば、燃える恋心を紅葉で紅く染まった川に例えた、在原業平。例えば、深々と降り積もる雪を静けさを破ることなく一言で伝えた、宮沢賢治——を想像しながらシャッターをきる。

写真と言葉。形は違えど、一瞬を切り取る作業は同じ。彼らの軌跡を追うことで、百年以上も昔の彼らと同じ感情を味わえるのではないかと、期待しているのだ。

「写真とは、一瞬を切り取る永遠である」              

 きっと期待を超えた一瞬があるはずだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?