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明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。…

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明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。見過ごされてきた歴史に光を当て、他の人とは違う角度からものを見て、なるべく辛口で書いていきます。精神年齢が現代より20歳ほど上の明治大正の人ならどう考えるのかと自問自答しています。

マガジン

  • 光瑤、覚醒す ― 飛騨・大白川渓谷 くるま旅

    日本画家の石崎光瑤が1907年から1910年にかけて三たび訪れた大白川渓谷を114年後にドライブ。光瑤の紀行文と写真・絵を読み解きながら、時空を超えて光瑤の魂を感じる旅です。

  • 石崎光瑤の槍ヶ岳登山

    日本画家、石崎光瑤が明治43年(1910年)夏に挑んだ槍ヶ岳登山を読み解き、その深層に迫ります。剱岳第2登についても、光瑤撮影の写真を詳細に分析し、深読みをしました。

  • 剱岳初登頂の史実 小説『点の記』とどう違うか

    柴崎測量隊による剱岳登頂(1907年)は近代日本登山史に刻まれています。しかし小説『点の記』や映画によって脚色されたために史実は霞んでしまいました。徹底的な資料調査をもとに、柴崎芳太郎は何を目指していたかをあらためて問います。

  • 琴月と冷光の時代

    大正7年、童謡運動の先駆けとなる「少女」音楽会を帝劇で開いた児童雑誌編集者と音楽家。同郷の2人は新しい子供の歌で意気投合し、時代の先端を切り開きます。忘れ去られた2人の足跡を追い、その周辺の唱歌史や登山史や美術史にも触れていきます。順不同で順次公開します。2013年スタート。

  • 【資料】琴月と冷光の時代

    本編「琴月と冷光の時代」の資料集です。

最近の記事

19. 光瑤生誕140年を祝う

石崎光瑤は1910年5月、14日間かけて往復72里(288km)を徒歩で旅し、春の白山を写生し撮影した。 それをわずか5時間でドライブし、デジタルカメラで速攻撮りするという現代の旅。あの世の光瑤も苦笑するしかあるまい。 それにしても現代の撮影技術の進歩は驚くべきものだ。 水しぶきなどモノともしないカメラがある。写真は動画になり音声をも記録できる。ドローンという技術は視点を地上から解放した。危険を冒してわざわざ断崖を降りなくても、鳥の眼のようになって撮影することが可能なの

    • 18. 矛盾めいた悲運の名瀑

      2024年5月26日、大白川ダムが堰止めた湖「白水湖」の湖畔に立った。標高1240メートル。白水滝の上に広がる平地だ。 ここにはかつて猿ヶ馬場と呼ばれる森が広がっていた。石崎光瑤らの一行が114年前に宿泊した鉱山事務所跡や大白川温泉は湖の底にあるのだろうか。[1] 平地のなかほど、湖に向かってまっすぐなコンクリート水路が続いていた。200メートルはあろうか。 白水滝周辺では、1960年代前半に大白川と白水の2つのダムが造られ、合わせて2つの流域変更が行われた。 大白川

      • 17. 写真全滅、頼りは絵筆

        滝壷の水煙と格闘して撮影した結果は「全滅」だった。 雑誌『山岳』に掲載された著名な紀行文「春の白山」は、その敗北が判明した後に、石崎光瑤が記したものだ。「現像の結果はついに賞する印画を得なかった」と短くとどめている。心情は察するしかない。 落胆は大きかったであろう。写真術の難しさをあらためて感じたにちがいない。この時代、自然の厳しい条件下で、写真は頼りにならない。最後は自分の目と手による写生しかないのだ。 『高岡新報』には《瀧壷より見たる白水瀑布》という挿絵が掲載されて

        • 16. 濛々たる水煙、曇るレンズ

          石崎光瑤(25歳)が立山室堂で洋画家吉田博(32歳)と出会ったのは明治42年8月5日である。 吉田博はそれから3週間後に大日岳を経由して称名滝の滝壷にまで降り、写生した。その素描は明治43年9月2日の『富山日報』に掲載されている。ここではその詳細を記す余裕がないが、その新聞紙面を光瑤も当然見ていたことだろう。 今度は私が白水滝の滝壷に降りる。写生して写真も撮るぞ。 そういう野心を光瑤が抱いていたとしてもおかしくはない。明治40年から42年にかけての山旅は「連戦連勝」の成

        19. 光瑤生誕140年を祝う

        マガジン

        • 光瑤、覚醒す ― 飛騨・大白川渓谷 くるま旅
          19本
        • 石崎光瑤の槍ヶ岳登山
          10本
        • 剱岳初登頂の史実 小説『点の記』とどう違うか
          4本
        • 琴月と冷光の時代
          51本
        • 【資料】琴月と冷光の時代
          23本
        • もっと深く!吉田博と山旅
          23本

        記事

          15. 谷の神秘と森の尊厳

          事務所に戻り、朝食を済ませると、光瑤は2人の案内人と同行の新聞記者、石黒劒峯に向かって言った。 「白水の滝を見に行こう、滝壷に降りてみたい」 おいおい、きょうは休養日じゃなかったのか。昨日あれだけ見たじゃないか、また行くのか。滝壷? きょうは水が多すぎる、危いぞあそこは。 同行者たちはそう思ったのではないか。 光瑤は強情な一面のある人だ。どうしても見たいと思えば見に行く。同行者がたとえ行かないといっても行くのが光瑤なのである。 4人は犬のカメとともに出掛けた。残雪を

          15. 谷の神秘と森の尊厳

          14. 一陣の風 湯舟と老樹幻影

          明治43年5月14日、土曜日。いよいよ石崎光瑤の「覚醒の一日」がやってきた。[1] 夜が明けると外は霧雨だった。やみそうにも思えたが、早々に白山登頂をあきらめ、休養日と決めた。 昨夕は雨のなか寒さに凍えながらこの「旧鉱山事務所」にたどり着いた。天井が低く大人4人では狭すぎる。蚤にも悩まされた。 朝食にはまだ早い。濃霧のなか光瑤は川岸まで下りて行き、温泉につかった。透き通った湯で、湯加減もほどいい。 時のたつのも忘れていると、一陣の風が吹いた。霧はみるみるうちに晴れてい

          14. 一陣の風 湯舟と老樹幻影

          13. 夏秋春の白水滝を総括

          原生林のこんもりした稜線の向こうに残雪の峰々。あとで地図を見たら、白山の南に連なる別山(標高2399m)だった。石崎光瑤が「春の白山」を旅したのは5月13-16日だから、筆者のドライブ時期の約2週間前になる。 光瑤は明治43年(1910年)春、3度目いや正確にいえば 白水滝と4度目の対面をしたとき、この風景を総括するように書いている。 これはもう漢詩である。難しい。が、これが光瑤の感受性である。 「寵児」とは自分を指して言ったのか。光瑤は、圧倒的な水量の春の滝を見て、他

          13. 夏秋春の白水滝を総括

          12. 無我の境地で細密スケッチ

          白水滝の周りは柱状節理の岩壁だ。[1]さらにその周りを微妙な色違いの緑が取り囲むようで美しい。左に目を移すと険しい谷筋に5月下旬というのに雪渓が残っている。 116年前の石崎光瑤は、落下する水を幾度かじっと観察した後、周囲に目を転じた。この滝見台に立つ人はだれもがまず主役に目を奪われ、そのあと周囲を眺めて景色の壮大さを感じるのである。 このとき光瑤は無我の境地に入っていたとも記している。 明治41年10月18日、夕暮れは早かった。午後4時に写生を切り上げ、宿泊先に向かっ

          12. 無我の境地で細密スケッチ

          11. 白水滝、音響の予兆なく

          間名古谷出合から20分足らずで滝見台の駐車場である。標高1250m。いよいよ白水滝だ。 階段をすこし降りると一気に原生林だ。整備された散策路。欝蒼とした感はない。大木はミズナラとブナか。5分ほど歩く。 午後2時17分。標高1230mの滝見台に着いた。手すりに近づき木々の合間から対面する。 水口から滝壷に直接落ちる「直瀑」だ。明治時代に日本一を争っていた日本三大瀑布(三名瀑)だけあってすばらしい。なぜ三大瀑から転落してしまったのか。[1] 1990年の「日本の滝100選

          11. 白水滝、音響の予兆なく

          10. 太湖石のスノーブリッジ

          間名古谷の右岸に入り徐々に標高を上げる。大白川から少し離れて樹林帯を進む。 昔は勘助平(標高約1050m)からワリ谷を渡り八石平(標高1050m~1250m)へと原生林を縫うように登山道があったというが、車道を走るとそれは分からない。 明治43年の光瑤は、箱抜桟道を下りて大白川沿いに遡行し、ワリ谷から八石平に登った。その時の描写もまた面白い。 大白川を覆うようなスノーブリッジにいくつも穴が開き、いつ崩れるか分からない状況だったのだろう。 「太湖石のような奇観」と言われ

          10. 太湖石のスノーブリッジ

          9. 幻の箱抜峠と2つのつり橋

          対岸に見えるあたりが箱抜峠(950m)だ。アワラ谷への林道の切り通しが見える。 この林道が開通したのがいつか分からないが、それ以前には登山道があった。 シナクラと箱抜の2つの桟道が老朽化して危険であることから、昭和28年か29年(1953年か1954年)に営林署と観光協会が2本のつり橋を架けた。 左岸からいったん右岸に渡り、小さな山稜を越えて、右岸から左岸に戻る。越える場所が箱抜峠だった。 『岩波写真文庫 228白山』(1957年)には、写真が何枚か掲載されている。

          9. 幻の箱抜峠と2つのつり橋

          8. 犬をお伴にシナクラ桟道

          「この桟橋、すばらしいねぇ。描くんならやっぱり対岸から見ないとなあ。対岸に渡れますか」 「な、なに、この激しい流れを渡れるわけがない。不可能だ」 明治41年秋、石崎光瑤は案内人とおそらくこんな会話を交わしたろう。 光瑤の意思は固かった。「それなら戻って、流れの浅いところで渡ろう」。結局、光瑤の一行は、迂回して対岸にわたり、周囲を観察した。それが文章になって残っている。 流れの緩急、川面の表情をよく表現している。ただ「万斛の雪」が少しわかりにくい。この時は10月中旬、す

          8. 犬をお伴にシナクラ桟道

          7. これが箱抜の核心だ

          アワラ谷林道との分岐点からしばらく進むと、再びトンネルだ。約120m、今度は短い。 これを抜けると左側の視界が開けた。眼下にわずかに川面が見える。砂防堰堤が人工の滝をつくっている。 車道の標高は950m。見下ろすように写真を撮る。 ここが箱抜のあたりらしい。地図を読むと、川面は車道から約75メートル下、関門部分の幅は約30メートルだ。 ここがまさに大白川本流と間名古谷(マナゴ谷・繊砂谷)との出合であり、箱抜の核心だ。光瑤は「白山裏山越の中で最も絶勝の寄り集った」と記し

          7. これが箱抜の核心だ

          6. セキレイの巣と母鳥

          1年半後の3回目のベンツル通過の際には、阿修羅とは真逆のイメージの逸話が記されている。 なかなか抒情的である。 花鳥画家の面目躍如か。このあと案内人が「荒々しい爪」でその卵に触れようとするのだが、光瑤はそれを制止している。 2024年5月、光瑤の旅した114年後にほぼ同じ空間に立つ。鳥の姿は見えない。鳴き声も聞こえない。 同じ5月でも光瑤の時より約2週間季節は進んでいるから、繁殖期が終わっていたのか。 それにしても光瑤の観察力には感心する。(つづく) ◇ 表紙写

          6. セキレイの巣と母鳥

          5. 岩壁に阿修羅の鮮血?

          岩屋ヶ谷を過ぎ、道は二俣に分かれる。下へ降りると本谷を渡ってアワラ谷に通じる林道である。この分岐点で、右手のやや広い舗装路を選んで進む。 このあたりで対岸に見える岩壁が「ベンツル」の絶壁なのだろうか。車道の限られた視界にはその全貌が入ってこない。 昔の絵葉書が頼りにはなるが、やはり特定できない。 光瑤はこう記している。 どこから「怒れる阿修羅」の鮮血という発想が出てくるのか。それらしい岩壁を見ても、凡人には「阿修羅の鮮血」を見つけることができない。 紅葉が盛りのとき

          5. 岩壁に阿修羅の鮮血?

          4. なぜかダンテ神曲の地獄図

          小さな青い淵の渓流を過ぎて、まもなく三方崩山からの大ノマ谷との出合である。国土地理院の地図にはこの谷名の記載がない。[1] 「大ノマ谷」は雪崩の谷という意味だ。近年は、標高差1200メートルの滑降を楽しむ山スキーの愛好家の間で知られている。 この先、大白川渓谷の左岸は、下流側から大ノマ谷・岩屋ヶ谷・間名古谷・ワリ谷という谷が、本谷に流れ込んできている。 大ノマ谷の出合から先、本谷は広々としてくる。もともと河道だった場所にも木々が広がり、川の流れは見えない。片側はコンクリ

          4. なぜかダンテ神曲の地獄図