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8. 犬をお伴にシナクラ桟道

「この桟橋、すばらしいねぇ。描くんならやっぱり対岸から見ないとなあ。対岸に渡れますか」

「な、なに、この激しい流れを渡れるわけがない。不可能だ」

明治41年秋、石崎光瑤は案内人とおそらくこんな会話を交わしたろう。

光瑤の意思は固かった。「それなら戻って、流れの浅いところで渡ろう」。結局、光瑤の一行は、迂回して対岸にわたり、周囲を観察した。それが文章になって残っている。

大倉谷・白水谷・ワリ谷などの水が誘い合わせて、ハコヌキと称する欝蒼と針葉樹をもって覆われたる両涯の迫った暗い谷から、銀色の珠玉を転ばして流れ出で、マナゴの本流と打ち合うて、ごく緩やかに、さながら静止せる水のごとくに樹影をさえ、倒写して流れ行く。が、その左岸に沿うて流れ来った水が、急転右岸にめぐると、再び驀然として、万斛ばんこくの雪を飛ばしてシナクラの桟橋の下を走り過ぎる。

『山岳』第4年第1号(1909年3月25日発行)

流れの緩急、川面の表情をよく表現している。ただ「万斛の雪」が少しわかりにくい。この時は10月中旬、すでに川の水に雪が混じって流れていたのか、それとも谷に残雪があったのか。

結局、光瑤はここで簡単なスケッチと写真撮影をしただけで「虫」を抑えた、という。「虫」というのは湧き上がるような「描きたい」という気持ちのことだ。

思えば、大白川おおじらかわ渓谷をドライブしたくなったのもよく似た「虫」の仕業である。

光瑤の一行は下流まで戻って川を渡り、シナクラの桟橋の入り口に立った。

これまで桟橋はたくさんあったが、それは杭を岩根に打ち込むか、あるいは樹根などを利用して、厚い板をくくりつけたものだが、このつり桟橋は岩壁に、長さ二間[3.6m]ないし三間[5.4m]の丸木を、一本あるいは二本ずつ、懸崖の上よりおおいかかれる老幹から、フジづるおよび針金をもってつり下げてあるので、しかも屏風のごとく屈曲して一町[100m]ばかりの長さにわたっているからすこぶる趣きがある。

『山岳』第4年第1号(1909年3月25日発行)
石崎光瑤撮影《渓》 右が全体 左は部分
明治40年撮影か 川の水量はそれほど多くないように見える
杉本誠『山の写真と写真家たち』(1985年)から転載

この写真は、明治40年8月、1回目につり桟橋を通過した際、撮影したものらしい。

雑誌『山岳』の紀行文に「(この前通過した時)行進の予定上、写生するの余裕がなく、単にレンズで、同行の河合良成君を画中の人物として撮影した」とある。

下流に向けて左岸側を写したものか。明治40年は、白山から下山時に通過した。2度目、3度目は渓谷を遡行しているので、逆に眺めたことになる。

山岳写真史の専門家だった杉本誠氏はこの写真を石崎光瑤の代表作として取り上げている。

《シナクラ桟道》
川口孫次郎著『飛騨の白川村』(1934年)

こちらは、昭和9年(1934年)に発行された『飛騨の白川村』(川口孫次郎著)に掲載された「シナクラ桟道」の写真だ。光瑤が撮影した写真とよく似た構図のように見えるが、人のサイズがかなり違う。

一方、明治43年春の旅では、「シナクラの吊桟橋」の記述は比較的短い。

シナクラの吊り桟橋へ来た。見ると、雨雪のために腐蝕して殊に登り際が全く破壊されて影をとどめない。途方に暮れた犬を、下から投げ上げてやる。桟橋を通ると、脚底の急湍猛烈を極め、悪龍が怒号したようで、よい心持ちはしない。

『山岳』第6年第1号(明治44年5月)

案内人が猟師で、まだ熊と遭遇する恐れがあることから、カメという名の猟犬を連れての旅だった。

光瑤が明治43年5月に描いた新聞挿絵を見る。

「シナクラの吊桟橋」『高岡新報』明治43年6月25日2面 

桟道のほぼ中央に、旅の道連れだった犬が描かれていて微笑ましい。

(つづく)

表紙写真は間名古谷を渡る県道の橋。

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